吉田松陰全集 第4巻 (岩波書店, 1940) 盗賊始末 [現代語訳]

盗賊始末

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048658 P.411(コマ番号210/241)

   敍

安政3(1856)、藩の命により、善行者の表彰があった。ここで、都濃郡(つのぐん)に正(まさ)というものがいて、吉敷郡(よしきぐん)には石(いし)というものがおり、二人とも孝婦であった。そして、大津郡にもまた登波(とわ)というものがいた。登波の事は最も烈であった。正はその身ひとつで老父母を養い、入り婿は一度去ってしまったが永遠に誓って嫁がなかった。石は独り寂しい寝室で病める舅姑(きゅうこ、しゅうととしゅうとめ)を介護し、貞節な夫の感じるところとなって、夫は家を出ることはなかった。これらのことは今の世には少(まれ)な所だ。正は年齢九十四歳、石は六十八歳、今も存命である。二人が並んで表彰を受けるのは、なんと栄えあることだろう。そうして二人の貧苦艱難は多くの年月を経て、誠に人の堪えざる所が多いけれども、それでも平常の事ではある。登波に至っては、しかしそうではない。強敵が襲来して、その人物の所在が分からなくなった。捜して見つけることができなければ死んでも返らないと自らを顧みず、たとえ捜して見つけたとしてもその反擊を恐れていた。決して、ただ流離奔走、困厄艱難のみだったのではない。(登波について)初めのころは、懦夫(だふ、臆病な男)が嫌う所であり、あるいは俗人が怪しむ所であったかもしれないが、その志が遂げられ功が成った今では、喜び認めざる他はなく、一気に進んで二孝婦の間に列(つらな)って光があった。今年(1857)、私は大津郡代(ぐんだい)()周布公輔のために烈婦登波の碑稿を仮で作った。登波が志を遂げたのは、今を距(へだ)てておよそ僅かに十七年前である。登波の年は五十九、今なお存命である。しかし事実が転化し、文書が錯乱して書き残すことができない状態に至っている。郡代の役人静間(しづま)衡介という者は、古を好み、義を重んじていた。前代()の時より深くその行いが埋もれてしまうことを惜しみ、古い文書を点検し、また登波、村の老人たちおよびその事を知る者に歴問して、大抵記(たいていき)を作り上げた。私もまた心を尽くし、知友を通じて当時の文書を数通得て、それらを用いて碑稿を作り上げた。碑稿はすでに出来上がったけれど、事実がなお抜け漏れて棄て忘れてしまうのには忍びないものもあった。ここにおいてまた討賊始末を作る。噫、登波の烈は二孝婦に並んで光あり。これを千秋に伝えて訛(あやま)らず、錯(たが)わず、その証とすべきものは、あるいはあなた方がここに観るものがそれであろうか。

安政四年(1857)六月二十五日、二十一回猛士藤寅書す。

 

ここに長門国大津郡(おおつぐん)向津具上村川尻浦(むかつくかみむらかわじりうら)、山王社宮番(さんのうしゃみやばん)幸吉の妻で、登波という烈婦がいた。その実家の父は甚兵衛といって、豊浦郡瀧部村(とよらぐんたきべむら)八幡宮の宮番であった。瀧部もまた大津郡代の宰判(さいばん、萩藩の行政区分)であった。宮番といえば、乞食非人などに比べて××より又一段と見下げられている者であったが、かの幸吉夫妻の振舞いは天晴(あっぱれ)大和魂の凝固(ぎょうこ)した士大夫(しだいふ)にも恥じない節操であった。さあ、その由来を解き明かしてみよう。

幸吉は、原(もと)は国内の困窮百姓で、母親と妹を連れて赤馬関(あかまがせき)に流れ落ち、物貰体(ものもらいてい)に成り、ついに奥小路(おくしょうじ)水ヶ谷(たに)という所の宮番に養われ、その後に川尻浦へ来たのだった。登波が幸吉に嫁いだのは十五歳の時で、下関に滞留中の事であった。幸吉はその時二十三歳。登波の父甚兵衛は、原(もと)は播磨荒井の百姓だった。登波が七歳の時、母親に連れられ、姉伊勢(いせ)・弟勇助と皆合わせて四人連れで、荒井を出て下関に来て滞在していた。父甚兵衛もその年のうちにあとから来ることになっていた。母は程なくして亡くなり、姉はのちに俵山(たわらやま)の宮番に嫁いだ。幸吉の妹で名前を松という者もまた、下関で奉公稼(ほうこうかせぎ)をしているうち、石見人浪人枯木龍之進(かれきりゅうのしん)と称する、売卜(ばいぼく=占い商売)または棒業(ぼうわざ)剣術指南などして諸国を徘徊する者に嫁いだ。これは幸吉が登波を迎えた時から四、五年も後のことであった。この龍之進、実は石見浪人ではなくて、安芸領備後三次(みよし)××であることは、後になって知られることであった。

こうして松は龍之進に従って諸国を徘徊し、文政三年(1820)十二月、夫婦連れで幸吉の家に来て、翌辛巳(しんし)の年(1821)正月まで滞在した。初め、登波は幸吉に従って川尻に住み、松は龍之進に従って諸国に流浪していた。ここに来るまで未だ彼女らは対面したことがなかった。対面したのはこの時が初めてだというのだ。

すでに龍之進は九州あたりへ行きたいのだといって、妻の松を預け置いて旅立ってしまった。同年(1821)四月に、先妻との間に生まれた女子、九歳になる千代という者を連れて来て、五日ばかり滞在した。そのとき龍之進が言ったことは、「上京したい思いがあり、支度をしてあるので、しばらく女(むすめ)を預けて置きたく、決着すればきっとまた戻ってくる」といって、その身一人で出立した。

その後、十月二十二日、松は、登波の身元の弟勇助へ相応の婦(よめ)が下関にいるというので、相談のために瀧部村の甚兵衛宅へ向かって幸吉の家を留守にしている所へ、二十八日の昼前、因幡(いなば)浪人と唱える田中文後という者が、幸吉の家へ来て、今日、枯木龍之進に対面したところ、「龍之進の妻、松がこの家に滞在しているから、明朝、新別名(しんべつみょう)村の人丸峠(ひとまるとうげ)大願寺まで連れて来るようにと、龍之進から頼まれました」と言うので、「松は六日前に瀧部村へ行った」と答えた。彼是(かれこれ)応答している間に、午後二時過ぎになって龍之進も来て、「今晚大願寺へ一宿を頼んだところ、彼の寺は故障しているから泊まれず、われ等もここへ参った。さて幸吉殿、われ等は彌々(いよいよ)上京することに決した。この度は、娘も連れていくつもりだ」との事を言ったのに対して、幸吉が答えたのは、「娘を連れていくからにはきっと帰国は未定なのだろう、妹の松は置き去りにするつもりなのだろう、自分の生活を凌ぐのが難しい時は、松や娘を預けておいて、今になって少々工面が付くようになれば、松を置き去りにして遠路御旅行するつもりだとは、言語道断の不人情な人間だ」と、幸吉は声高にせり詰めたところ、龍之進は辭(ことば)を受け流し、文後へ向かって言うには、「途中でも話したように、上京するのに女房同道では志願も叶わなくなる、離縁もした義理ある妻のことであるから、銀三百目くらいは渡すつもりなのだ」と話していると、幸吉は聞き取り、「銀子(ぎんす)を付けて離縁するなどとは、下賤な私共とて迷惑千萬、心底恥ずかしい、先程のことならば縁を切って離縁するよう(松に)言うから、兎も角も、松がいる瀧部村の方へふたりとも御同行するために、今夜は私の家へ御泊りなされ」と言って、翌朝、龍之進と娘千代・文後・幸吉の四人連れで瀧部村へと出立した。文後・幸吉は五里(20km)の路を進んで、午後五時頃に甚兵衛宅へ往き着き、前段の趣旨のことを、松ならびに甚兵衛とも話し合い、暇を取り離縁することに荒方(あらかた)決着した所へ、龍之進は、さきほど一同で出発して、途中栗野川口(あわのがわぐち)渡場にて、この辺りに少々所用があるので文後・幸吉は先へ参られよといって、娘を連れて渡守の固屋へ立ち寄り、ちょうどその時に一、二夜泊っていた、肥前国河原村生まれの無宿非人(むしゅくひにん)小市という者へ娘を預けて、夜八時ごろに(甚兵衛宅へ)やって来て、甚兵衛ならびに松とも対面で彼是噺し合ううち、龍之進は甚だ薄情であると、幸吉・松から迫(せり)詰められ応答する事が難しいほどであったけれども、結局は離縁に双方で折合が付き、手切の驗(しるし)として銀三百目を龍之進から松へ渡すことで落ち着いた。ただし、三百目の内、百七十目は前もって下関で松へ渡しておいた。今夜、三十目だけ実際に渡し、残り百目は文後を仲人として、きたる正月を期限に幸吉へ送るなどと龍之進は言ったけれども、幸吉・松はさきほどから金銀にこだわる訳は毛頭なく、かえって心恥ずかしいことだなどと罵る程の事になったので、何もかも龍之進が言うままで離別書を申し受け、事が済み、龍之進も酒一升を買ってきて、皆で呑み合いなごやかに折り合った。そうこうするうち午前零時過ぎ頃になり、龍之進は娘千代を近所へ預けていたので、嘸()ぞ待ち兼ねているだろうと、今からすぐさま出立するべきだと支度をしかけたけれども、闇夜の上に雨が頻りに降り、雨具の用意もなかったので、甚兵衛が「今夜はお泊りなさい」と親切に述べたところ、しばらく休息しますと、奥の三畳へ文後とともに入って横になった。

この夜、甚兵衛の家には勇助、滞在していた松の三人のほか、午後八時頃より美祢郡嘉萬(みねぐんかま)村百姓の利右衛門という者を止め宿していた。もっとも彼については、爐()の脇に寝かせていて、龍之進・文後と一向に出会うことはなかった。かくして、午前二時過ぎに龍之進が、「もう出なければならないので、茶を沸かしてほしい」と言ったので、甚兵衛・勇助が起きて茶を沸かし、飯を喰わせている時、文後も同じく起きてきて別れの挨拶をしたけれども、雨はなお降って止まず、龍之進は障子を開けてたびたび空を見上げるうち、内輪(うちわ)の者たちも少しまどろみ、文後はさっきの三畳へ入って横になり、また少し眠っていたところに、龍之進は燈火が消えたと言って松を呼び起こし、「付木(つけぎ)を取ってきてくれ」と言った。松は、「付木は仏壇の下にあります」と寝ながら答えたところ、甚兵衛が、「勝手不案内の人には分からないだろうから、お前が起きて火を付けてあげなさい」と言ったけれども、松は、離縁の人にそこまですることはないと起きなかった。甚兵衛は聞き兼ねて、私が付けて進ぜようと起きてきて、火を付け、外へ薪を取りに出た。そのあとに、龍之進は、松および幸吉・勇助の三人をことごとく切害(せつがい)した。甚兵衛が外から帰って来た所を戸口で切り倒した。甚兵衛はこの時、大きな煙管を所持していたが、それをかなり疵付けるほどであった。おそらく、その煙管で数回は受け留めたように見えた。文後は寝ていながら右の様子を聞き、そのまま出ていこうとしたが、帯を解いて寝ていたので、帯をむすびむすび出ていき、開いた戸口から覗き見ると、暁方(あけがた)ごろ、戸口に甚兵衛を切り伏せ、庭の垣の近くに龍之進が抜身(ぬきみ、刀)を引っ提げて歩いてきたので、これは何事だと声を掛けると、龍之進は大声で「言う通りにしないと共に討ち捨てるぞ」と言うので、畏る畏る座敷の隅に隠れていて、夜が明けて外へ出て見れば、幸吉・松・勇助の三人とも同じく座上に切り殺されていた。(文後は)嘉萬の利右衛門が庭の隅に屈んでいるのを見つけ、互いに協力し、隣家が遠い一軒家であるので、文後は外に出て、人殺しだ人殺しだと声を立て、利右衛門は急いで目代(もくだいしょ)へ届けに行き、朝八時ごろ帰ってきて、文後とともに戸口に伏せていたが、甚兵衛が未だ息絶えていなかったので、助けて座敷に引き上げたけれども間もなく絶命に至ってしまった。勇助は即死であった。松は十一月三日の夜までは存命であった。時に、甚兵衛五十四歳、勇助十九歳、松二十九歳。幸吉は、正気も慥(たし)かな様子だったので、頭に手拭いを巻いて介抱などしているうち、地元の人々が追々集まってきた。

龍之進・文後は互いによく知った仲である様子になったのは、今年の春になる前に、大津三隅村(おおつみすみそん)にて同行して一宿したとき以来のことであり、浪人付合(つきあい)で、親密な間柄になったが、この度も龍之進の手先として遣われたことになったと見える。この一夕の始末を見ても、文後が臆病なのはもとより、龍之進のふんどし担ぎであることが分かる。

幸吉の妻、登波は、川尻でひとり夫の留守を護っていたが、十一月一日の日暮に走って告げに来た者がいて、二十九日の夜、瀧部にて大変があり、詳しい事は小觸(こぶれ)の所に飛脚が来ているので、直(すぐ)に会って尋ねるべきだと言った。この時、登波は飯を移そうと杓子を持って庭に立っていたが、これを聞いてすぐ赤脚(はだし)走りで走りながら聞いたところ、飛脚が言うには、四人が切害にあったが、そのうち年長の人と年少の人は即死だったらしい。聞いたことから、父甚兵衛・弟勇助の事であることは間違いなければ、莊屋(しょうや)大田市郎兵衛方へ駆けつけ、只今から瀧部へ駆けつける事態だと伝えた。莊屋が言うには、中々ひとりで行くことは不安心だから、五、七人くらい頑強な者を伴って行かないと危ないとして、強く登波が行くのを止めた。また小觸の所へ往き、飛脚へ同行を頼んだ。飛脚は夜が明けなければ行かないと言ったので、終夜腰を掛けず立ちながらで待った。心があまりに急かされ、飛脚を強引に起こし、午前四時に出立し、二日の朝八時に瀧部へ到着した。案に違わず、父甚兵衛・弟勇助が死失(しにう)せ、幸吉の妹松、夫幸吉は大瘡(おおきず)にて横たわっていたので、これまでは變を聞きながらも現実とは思わなかったが、この有様を見るからには驚くとも怒るとも無念さは言葉にならなかった。十一月一日、御従目付(おかちめつけ、監視人)前原忠右衛門・村田満右衛門が出張し、同月十四日までに御究(おきはめ、現場検証)の一件が済んでいた。登波は如何とも詳しく調べることができず、出張の役人へ、どうか御慈悲をおかけください、私に敵を御討たせくださいと嘆願申し上げたところ、今は左様のことには成らないのだとして、この後、敵の住所を尋ねたが、その時の御捌方(おさばきがた)があるであろうとの事であった。こうした上にも、検断目明(けんだんめあかし)等に種々、龍之進の行方を尋ねたけれども、逐に知ることはできなかった。

さて、離縁のことは双方が納得の上、酒をも給合(たべあ)った程のことで、遺恨あるまじきことのようであるにもかかわらず、多人数の殺害に及ぶとはいかなることかと、御究(おきはめ)のとき、再度正しく取り調べが行われたけれども、幸吉・登波ならびに田中文後などが申し上げることは皆同様で、龍之進は元来易数(えきすう、占い)を考え、棒その外を指南し、威權(いけん)がましい男であるのを、離縁の一件で、悪様(あしざま)に申し上げたこと、夜明け前、付木(つけき)を尋ねられた時、松は不精(ぶしょう)の返答をしたことのほか、特に殺害に及ぶような心当たりはないと一同は言ったのだった。しかし再びその実際のところを考察すると、龍之進は別に密通の女がいて、松を嫌う心になり、夫妻の仲は和睦しなかった。したがって幸吉とも不快になり、加えて、松が甚兵衛方へ行くことによって、妄りに嫉妬の念が(龍之進)に生じたことかと思われる。要するに、その悖亂狂妄(はいらんきょうもう)は、やはり人理をもって論ずるに足らない。

登波は、心がはやって焦る思いであったけれども、夫の病気に頓着(とんちゃく)して日を送るうち、幸吉の瘡も翌午年(うまどし、1822)の早春頃には、ある程度快気(かいき)して、二月十一日には召し出され、右の始末御究を仰せ付けられたのだけれども、何分、数ヶ所の瘡によって大いに否拔(ふぬけ)になり、かつ身体も衰弱してしまい、以前のように働くこともできず、一年は所詮(しょせん)病床勝ちになって田畑へも出ず、後々には癲癇病に変わって、折々に発病して難儀していたが、登波は至極懇切に看病をして、寝食の事について何かと朝も暮も気を付けたけれども平癒しなかった。かれこれ、三、四年も過ぎ、登波は心の底では父弟の横死を悼み、遺恨は止む時がなく、復讐の念が勃々と差し起こり、寝食も忘れて憤発(心が奮い立つ)していたが、このまま月日が去ってしまっては彌々(いよいよ)仇の行方も掴めなくなり、ここ数年の志願は空しいものになってしまうと、それのみを苦心していて、ある日、松は幸吉の病の間を伺って、密々に心のうちを語ったところ、幸吉が申すには、あなたの父弟ではあっても、数年夫婦として契り過ごしているのであるから、私にもやはり父弟同様の事と思っている、しかも妹の松を切り殺した仇なのだから、私も共に敵打ちの心を助けたいと思っているけれども、病苦に頓着してこれまで空しく時が打過ぎてきたが、あなたの思いを聞いたからには月日を移さず速かに出で立つべきだ、私も全快すれば後から尋ねて行くからと言えば、登波は世にも嬉しげに夫に厚く礼を述べ、志を励まし、そして夫に気を付けてくださいよと伝え、懇意の間柄の人へ頼み、彼女らしい、旅装というほどのものでもない格好で、文政八年(1825)乙酉(きのととり)三月、懇ろに別れを告げて家を出立した。これは瀧部の大變から五年目のことで、この時、幸吉は三十九歳、登波は二十七歳、登波が、幸吉に嫁してから九年目の事と聞く。決して考えて行動できるようなことではなく、踏み出した登波はこれこそが今生の別れとなった。

かくして、登波は川尻を出て、萩を通り、奥阿武郡(おくあぶぐん)から石見(いわみ)へ移り、津和野(つわの)城下を越え、高角(1)人丸社へ参詣、浜田を通り、銀山・大森を経て、芸州筋の事も聞き合わせたけれども、龍之進は広島あたりではいずれも足が付かず、兎角、四人も切害に及んだ大惡ものであるから、近国に留まるまいと思って、出雲を越え、大社・日御崎(ひのみさき)等へ参詣し、松江辺りをかれこれ探し、伯耆(ほうき)の大山(だいせん)因幡鳥取の城下を通り、但馬・丹後・若狭に出て、この辺りで酉年(1825)は越年(ゑつねん)したのだった。同(文政)戌年(いぬどし)(1826)に至り、近江・美濃・伊勢・紀伊へ廻り、高野山へも立寄り、女人禁制の場所までも参って、和泉・河内より大和に至って越年した。登波は、つらつら考えることには、京都・大坂は人々がいつも往来して立ち寄る地となっているので、悪者共は決して足を止めるまいと思い、大和から伊賀を経て、また近江へ立ち戻り、大津駅から三井寺比叡山その外を打廻り、京都中の神社仏閣を数々拝礼して、丹波の亀山・摂津勝尾寺・播磨書寫(しょしゃ)山から大坂へ出て、淀船で伏見に上った。そのあとも賊はとうとう内近国にはおらず、奥羽・関東へと立ち去ったのだろうと思い定め、美濃より木曾地(中山道)を東へ下り、信濃に入り、飯田の城下を過(よぎ)り、上諏訪・下諏訪・和田峠を通り、善光寺へ参詣し、越後を過(よぎ)り、今町を通って新潟に至り、陸奥(むつ)に入り、会津の城下を通り、仙台に出て、なおまた東へ下り、南部の恐山(おそれやま)に参った。恐山は陸奥の東北の果てで内地はここに尽き、海を隔てて蝦夷松前に連なる所である。

さて、そこから津軽に向って出羽を廻り、また陸奥にかかり、岩城を通り、常陸(ひたち)に出て、筑波山に登り、下野(しもつけ)の日光山へも参詣し、遂に江戸に出てきた。およそ三年滞在して、その内、所々、方々を尋ねた。

それから水戸の道中で、常陸筑波郡の藤代宿にも滞在し、また同郡若柴宿の百姓、市右衛門という者の家へ宿泊した、この時(登波は)年三十三で、不意に病気づき、百日あまり寝込んでいたところに、亭主が殊のほか親切に保養してくれて、快気した後、上総・安房などを打ち廻り、また若柴へ戻り、以前の礼として奉公するため滞在し、農家の手伝いをして、一年ほどここで過ごした。       

時は過ぎ、宿所を出発し、江戸から相模を通り、伊豆の最南の出崎、手石(南伊豆)阿弥陀・イロウ(2)權現までをも拝礼し、東海道筋へ出て、また遠江(とおとうみ)の秋葉・三河の鳳來寺等へ立ち寄り、宮(みや)の渡(わたし)を打ち渡って奈良を通り、紀伊国加田(加太?)へ出て、十三里の渡りを亙(わた)って、阿波の撫養(むや)へと上がり、土佐に移り、伊予を通り、讃岐から備前田ノ口へ上り、ところどころ尋ねたけれども、終に行方を知ることができず、また常陸の若柴宿に向かって帰っていった。

以前、市右衛門宅で病気の時、もはや快気できるかはっきりしないと覚悟をしていたので、亭主へ詳しい事情を物語っておいたのだが不思議に快気したのだった。ここに、市右衛門の二男で亀松という者は、登波よりは十五歳ばかり年若(としわか)で、義気が逞しく天晴たのもしい男子で、ちょうど心に願うことがあるのだと、讃岐の金毘羅へ参詣つかまつりたいのだという事で、登波としても渡りに舟を得た心地がして、密かに志を通じ、かねてより復讐の大望の事について、なお打ち明けて相談したところに、亀松は、それは助太刀いたしますと承諾し、父の市右衛門へ内々に別の人からこの趣旨のことを聞いて貰ったところ、市右衛門が言うには、素生(すじょう)も知れぬ女を連れ立って出ていくことには不納得ではあるが、たとえ親兄弟の勘当を受けても助太刀する、大望を遂げさせるとの心底であるならば、大志願が成就した上には、一人で帰国し、詫言(わびごと)を申すべきだとの事だったようで、その役割を果たすことができるのだと、亀松は両親の許しを受けたも同様と喜び、登波と連れ立って密かに宿所を出発した。

それから、日光山・中禅寺・善光寺等へ参詣し、飛騨・加賀・能登・越前の国々を探し求め、京都へ登り、また紀伊より四国へ渡り、讃岐の金毘羅へ参詣し、安芸の広島へ着岸して、初めて敵龍之進の所縁(ゆかり)の地が高田郡(広島県)秋町村にあるとの情報を聞き出し、その辺りへ度々来てみたが、何分有所(ありか)が分らず、同郡吉田に、龍之進の老母がいるとのことを聞き出し、尋ねて行って、「われら夫婦は関東辺りの者で、この辺りに剣術指南の浪人で、名前は忘れてしまいましたが、その老母の親類であって、ときどきこの辺りへも来ると伺っているのですがご存じないか。」と聞いたところ、存じないとのことで、あちこちに事情を聞いてまわった。吉田から半道(はんみち、1里の半分、約2キロ)ほど下ったところで畑を打つ男に、何如にもよく龍之進に似た者がいた。登波はこの男だと思い、亀松と内談して、「もし敵龍之進であったならば、懐剣で切り殺したい心底だけれども、流石の龍之進であるから、もし返り討ちにあったならば、助太刀して討ち取ってください」と言ったので、(亀松は)「容易いことです」と申して、(その男に)近づき、「少々お尋ねしたい事があるのですが」と言うと、(男が)頭の手拭いをぬいで「何事ですか」と言うのを能々(よくよく)見れば、全く龍之進ではなかったので、「私共は関東の者でございまして、物詣(ものもうで)にこの辺りを通り掛かったところで、この辺りのご出身で剣術指南をされているお方の門人に数年前になり、ご厚恩に預かった者として、お目に掛かり御一礼を申し上げたいのです」と答えた。「時間が経ってお名前は忘れてしまいましたが、何かお心当りはありませんか」と尋ねれば、彼は心当りの人相を話してくれたけれど、年齢が四十歲位と言うので合わず、「私共が探しているお方は五十位のご年齢と聞いていまして、私共は文字の読み書きができず、噂に聞くところによりますと、その方は学問が達者ではあるけれども、師匠に弟子入りして達者となった者には見えないと伝え聞いております」と言えば、「それならば龍之進という者ではないだろうか」と言うので、これこそ敵龍之進の事であると飛び立つほどに思ったけれども、「私共は彼の人相とお名前を聞いてはいましたが覚えてはおりません」と言えば、「おふたりは龍之進の仲間の御方ですか」と言うので、「いえいえ、龍之進と言う方が如何なる人かは存じ上げませんが、私共は関東辺りの者で小百姓でございます」と言えば、「この辺りは××村という所で龍之進も仲間です、お百姓であるならばこの辺りにお泊りすることはできませんので、ここから二里ほど下っていけば、そこに龍之進の母と兄がいます。その辺りでお尋ねなさったら委敷(くわしく)分かるでしょう」と言うので、「私共は伝言を頼まれただけですので、無理にお会いするほどではございませんので、もし今度お会いになりましたら、私共のことをよろしくお伝え下さい」と頼んで立ち去ったとき、二人の姿を怪しんだのだろうか、そのあと、「龍之進が殺した男に娘がいたそうで、もしやそれではないだろうか」と独り言をつぶやいたそうだ。このことで、これまで石見浪人とのみ思っていた枯木龍之進が、実は安芸御領の××である事が始めて分かった。

登波は益々奮発し、二人で河筋に添って下っていくと小さい村があった、これは三次から一里ばかり上がったところであった。ここも備後三次郡の内で、安芸御領であると聞いた。その土地の百姓屋に一宿し、龍之進について餘所事(よそごと)で問い合わせてみたところ、彼は九州の彦山(ひこざん)に娘がいて、その辺りへ行っており、近年はこの辺りへは帰ってきていなかったが、一昨年比(ごろ)より帰るようになったところへ、またまた当春の頃より旅に出て自宅にいないので、兎角、彦山へ行ったのだろうと話していた。時に、三月三日の事であり、ところの習いで××ども物貰いに来た老女と男がいた。すなわちあれが、龍之進の母と兄であると宿の者が声をかけたけれど、脇へ寄って無理に返答もしなかった。

明朝、宿を出て近所に二宿して、夜な夜な龍之進の家へ行って立ち聞きし、留守に違いないことを確かめ、敵龍之進はきっと彦山にいるに違いないと決めて、嬉しさを口にするばかりではなく、天地神明を礼拝し、亀松も年来の約束通り助太刀するからと、ひとまず(登波の)御国へ立ち帰り、願い出た上で判断するべきだとして、石見に至り、大森・銀山を通り、御城下萩松本へ帰り、濱崎目明(はまさきめあかし)の与八という者に会って、右の積年の志願から、所々、方々での辛い苦労を重ねて遂に賊の在所(ありか)を探し付けたことまでを話し、何分敵を討たせてくださる様に願い出てくれるよう頼んだが、一応在所(ざいしょ、先大津付近のことか)へ帰り、先大津(さきおおつ)目明に取り次いで願い出ると言ったので、すぐさま角山(つのやま)村へと帰着したのは、天保七年(1836)丙申四月の事であった。

よくよく登波が吉田辺りを探索したのには、理由があることであって、初め龍之進の娘千代を登波の家で預かった時、何心なく、あなたの親達は国元では何をなさっているのと尋ねたところ、馬沓(うまぐつ)を作っているのと言ったので、馬沓を作って何するのと問い、吉田へ持って出て売るのと答えたことが耳底に残っていて、敵を探しに出たときから、なんでも吉田という所の近傍が、敵の在所に違いないと、どこの国とも知らずに、心には懸けていたところ、四国で風(ふっ)と安芸に吉田という所があると聞いて、これだと思いついて、行って探し求めた結果、果して見つけ出したのであった。

さて、龍之進の娘が彦山にいるというのは、すなわち千代のことで、十六年前、大變のとき、龍之進が栗野口の無宿(むしゅく)非人である小市に預けておいたので、そのときは地元の人からも小市からもその次第が届け出されていて、究明の上、拾子の取り計らいとなっていた。その頃、彦山の山伏である梅本坊が法用(ほうよう)で彼の地へ来ていて、連れ帰って養女とし、後名を兎伊(とい)と改め、同山の宝蔵坊の妻となっているという。

登波は角山に帰り、家の様子を尋ね聞くと、十二年前、家を出た後も、夫の幸吉は病気がいつまでも全快にはならなかったけれども差し抑えて、その内あとを追って旅立ち、行方が知れなくなっていた。登波は折角十二年の道行のこと、さらには常陸の人、亀松へ助太刀を頼んだことを、夫の幸吉へ一つ一つ話すのを楽しみにしていたのに、思いも寄らないことになって、愁傷のあまり当惑してしまったけれども、このまま引き延ばしていたならば敵龍之進はまたどこへ立ち去るだろうかと心元なく、片時も緩(ゆる)がせにするべきではないとして、亀松に勇(いさ)められ、また伯父の茂兵衛に密談したところ、茂兵衛も幸吉の安否は不明であるから、敵の居所が分かるのならば、片時も止めるべきではないと言うので、願い出ることさえせずに、亀松と同行してすぐさま打ち立ち、瀧部村に至り、甚兵衛その外の墓参りをして、位牌等を写し貰って、彦山へと急いで打ち立ち、下関まで行くと、松五郎(3)名代として茂兵衛が、後から追いかけてきて、是非とも一応立ち帰れと、御代官所からお達しがあったゆえであって、仕方なく二人共に角山へ帰着した。これは萩の目明である与八から内々で政府へと登波・亀松の事を届け出たゆえにであって、政府より御代官所へ指揮があったことと聞く。

こうして、政府では衆議がばらばらで、あるいは賊を捕えて来て、萩扇の芝という所に矢来を結び、明白に復讐させるべきと言えば、あるいは復讐はもはや盛事ではないのだと言って、亀松・登波のことは、五月二十八日に政府にて決議し、御代官所へ通知されたことは左の如くである。

先大津の瀧部村に住む宮番の娘、登波と申す者(ここでは父甚兵衛が関係しているので瀧部という、瀧部は豊浦郡にて先大津宰判に属する)は、親(甚兵衛なり)兄弟(弟勇助なり)を以前(十六年前の文政四年(1821)十月二十九日)同所において、浪人枯木龍之進に殺害され、この地から離れた。登波は親兄弟の敵であるから、何卒龍之進の所在を尋ね出したい一念があり、十六年前から所々へと方々を尋ね、(登波は家を出てからは十二年になるが、ここに十六年と記すのは大変の年から数えた)登波は、龍之進のことを芸州の者と聞き正し、仇討ちを望んでいると帰ってきて願い出た。しかし、瀧部・川尻その外でも親類所縁の者はなく、当座、引き受ける者がいないため、まず当分のことは御代官所に任せるよう仰せ付けられた。亀松のことは、不義密通者に付き、いきさつを申し聞かせて生国へ帰らせる、これまた御代官所から授けさせ申すべきである。また、龍之進のことは、過半は九州に滞在しており、芸州に老母もいることに付き、折々に往来しているようだと登波は申し出た。人殺罪の者に付き、内密に聞き糺した上で、召し捕るよう仰せ付けられた。

右の趣旨のことが、御代官所へ下りたので、六月二十日、大庄屋の久保平右衛門は、亀松・登波の二人を私宅へ呼び出し、詳しく御授けの旨趣を段々と聞かせた所、亀松は数百里の遠路を一方ならぬ艱苦を凌いで、事に寄っては一命をも打ち拾てるつもりで踏み出した任俠の気概をわずかながらも理解されず、かえって不義密通の者などと黜辱(ちゅつじょく)させられるのは、嘸(さぞ)かし無念であった。この知らせを読み聞いて、ほろほろと落涙しながらも、即座に承諾の意思を述べ、登波は格別に規則違反の申し分はなかったけれども、有無の返答はしなかったので、二人とも今一夜は熟慮しなさいといって河原へ留め置き、明朝にまた呼び寄せ、再度落着筋(らくちゃくすじ)を尋ねれば、両人とも全く納得せず、亀松へ路用金として二両を渡したならば、亀松から一札を差し出したことは左の如くであった。

   申上候事

私は常州筑波郡の若柴村の百姓でございます、御当国出身の登波という女性は、去る卯春(うはる)(1831年春)、風(ふっ)常州(常陸国)あたりを通りかかり、病気が差し発(おこ)り、滞在しているうちに、大望がある身柄だが、女の一人旅で覚束なく、何卒同行して力を貸してくださいと申し上げるので、やむを得ず召し連れて順々と下り、先日、御当地まで参りました。登波のことは御当地の者なので放っておかれるだろうと思いますが、私の身柄のことは他国の者ですので御国法もあり、長期間の滞在を仰せ付けられることは難しい旨、段々と複雑な事情を仰せ聞かされ、承知いたしました。その上で、登波へもその事情を聞かせて納得してもらったことですので、私は早速故郷へと立ち、帰国いたします。

前段の通り仰せ聞かされた事情、さきに事情聴取を受け、申し上げた所は、これまで女を召し連れてのことに付き、帰国用の貯え等もないはずだとの事で、金子二両を頂戴いたしまして、甚だ恐れ入るありがたき仕合せに存じ奉ります。なおまた、登波の考え筋については、内々様子をお聞きしていることもございますけれども、至極隠密な事でございますれば道中で申し上げるに及ばず、帰国したのちにても他言はいたしません。いずれにせよ念のため、一札を作って差し上げておきます。以上。

  申(1836)六月

こうして、亀松は六月ごろ帰国の途に立ち、登波は当分のあいだ松五郎宅へ留め置き、物事について懇ろに気を付けてやり、それから組合の世話になり、その後、角山村に宅を構えたという。

九州彦山へは萩目明の与八・先大津目明の松五郎の二人を、直横目(ぢきよこめ)茂助へ加えて、陰密に探索をしていたところに、娘の兎伊、彼の山内の宝蔵坊へ嫁いでから、由縁(ゆかり)が出来て、龍之進は佐竹織部と改名し、折々登山もするという情報がいよいよ間違いない故、捕らえることになり、松五郎は豊前国へと海を渡り、香春(かわら)宿目明の利吉・久市、添田(そえだ)宿目明の利吉、彦山目明の好助の四人へ頼み、下関目明の弥五郎からも、来てくれるようにと書状で頼んでおいた。(彦山及び香春・添田は並んで田河郡にある)

登波は亀松を追い返され、蟹が手を失ったような心地になって、頗る途方を失ったけれども、第一には御上より御手を入れて下さること、次には松五郎へもできるだけのことを頼んで疎(おろそか)ないこと故、敵討ちの事は暫(しば)しは考えないでいたけれども、何如にも胸中に忘れ難く、いつも松五郎へ、何如に何如に、とせり詰めれば、松五郎はただ時を待て、時を待てとだけ言うので、益々悲しんで憤れば、松五郎も程よくなだめて、時を待っているうちに、白駒(はっく)の隙(げき)の留まらず(あっという間に過ぎ去る月日は留まらず)、四、五年も打ち過ぎて、天保十二(1841)辛丑三月十日、敵枯木龍之進、当時佐竹織部を、彦山の麓(ふもと)において捕らえたとの情報が、彦山の好助・添田の利吉から、下関の弥五郎に伝えられた。そこから先大津(さきおおつ)の松五郎へと通達があった。松五郎は出萩して、その趣旨を報告した。好助・利吉から弥五郎への書は左の通り。 

飛脚にてお目にかかります。暖和の砌(みぎり)でございます所、いよいよ御堅固でありますよう珍重に思っております。去る冬、竹部目明より依頼が(竹部は瀧部の普通の表記で、実際は小田目明松五郎のことを誤ったのだろう、松五郎から依頼したのは天保七年(1836)の事で、したがって去冬といっているのは、その後、追々催促して、特に去冬(18401841)になって改めて依頼を出した事だろうと考えられる。)萩御領内の科人(とがにん)佐竹織部という者は、彦山へ昨日九日に一泊し、今朝がた夜込のうちに立つとの情報をうけて、早速、手附の者どもを召し連れ、同山麓村にて今八ツ時(午前3)召し捕った。このことを飛脚でお伝えして御意を伺いたく。もっとも同人の荷物は筑前小石原より宿継(やどつぎ、宿場間を経由)でもって添田宿に継込(つぎこみ)になり、早速、同宿の御役人衆中へお届け申し出ておきました。この旨を貴所様より先方へ(下関から萩へ)早々に御通達下さい。佐竹織部の身柄はわたくしどもが預っております。大切なる身柄に付き、この状が届き次第、貴所様に当宿へ御出張して頂きたく。右で申し上げたことを進めて頂きたいと飛脚にてお伝えしました。以上。

  三月十日

彦山目明 好助

添田目明 利吉

 萩屋弥五郎様

萩では、十四日夜に松五郎が到着し、何角(なにかど)の用意が調い、十五日夜に直横目茂助・検断二人・目明手先一人並びに松五郎同伴で出立し、十七日朝に下関に着き、弥五郎に面会し、十八日に香春宿目明の虎屋利吉方へ着いた。翌十九日朝、一達(一同の意味?)添田宿に至った。彦山目明の好助が出迎え、旅宿新屋專作へ落ちつき、好助と対談したところ、好助が言った。織部の事は、去年も六月、九月の二度、彦山へ来て、源正坊に滞在し、かつ政所坊へ借銀の口入(くちいれ、斡旋、※「神官」が「領主」に対して土地の寄進を働きかけ、その報酬として「口入」を得る。また、「幕府」が御家人を「荘園」の職に推挙する行為を「口入」という。つまり宗教(政治)権力と世俗権力を取り結ぶもの)を渡す途中でもあった様子で、是非とも政所坊へは便りがあるとの事に付き、前もってここへ織部が登山したら知らせてくれるよう頼み置き、待って居たけれども、彦山の松会の時にも来ないので、小松にはきっと来るであろうと、添田宿の利吉とも兼て示し合わせていた所、折柄利吉が他国へ行く用事があり、倅の幾平と登山し俱々(ともども)待っていた所、当月九日に政所坊へ来るという旨の内通があり、翌十日また出立したことを知らせて来て、とにかく、織部の娘千代、当時は兎伊という名で、宝蔵坊の妻であり、七歳になる娘もいる、その兎伊を私共はかねて心掛けていたところ様子が変わって、急に出立したので、右の理由で俄かに方々へ手配し、彦山領一の宮谷にて私の手先の新平も道連(みちづれ)になって、小細工はせずに棒で足を横なぐり、頭をも擲()ぎ臥せ、残る者どもは(織部)腰物(こしのもの、刀)大小を抜き取り、十かぞえるうちに、私が駈付けて、「二十年あまり前、枯木龍之進と名乗り、萩御領内にて宮番の者たち四人を討ち殺したのは確かか」と尋ねた所、「そのことは間違いない、もっとも三人は即死し、一人は全快したと聞いている」と答え、「そして芸州の××であると聞いているが確かか」と問いかけた所、「全くそのような者ではなく、石州(石見国)那賀郡都治村の出身で、素性は本当だ、間違いない」と申したので、それ以上問いただすには及ばず、人を殺したことは相違なく、かねて萩御領大津郡小田の松五郎から捕えるよう依頼が出されているので、引き渡すことにすると申し渡して、手堅く縛って私宅へ連れ帰った。それから、同山の正賢坊の事は、去々年の冬比(ごろ)であっただろうか、筑後辺りから渚というものを下人として雇って連れ帰り、年齢二十四、五歳くらいにも見えて、その後、増光坊の弟子になっていたことから、織部の子に当たるのではないかと前もって差込もあり、案ずるがごとく、織部が捕えられた時、すぐに逃げて姿を隠し、現在行方が知れない。その由を(龍之進に)尋ねてみた所、全く倅ではなく、少しの由縁もないと申すので、右の渚を態(わざ)と見遁(のが)しにしていると聞かせた所、お心入れ有難いと挨拶を申していた。なお、織部が申す事には、京都中山大納言殿内森石見へ、佐竹渚からの書状が一通あり、金子四両在中とある分については、御慈悲をもって取り扱い下さるよう、また筑後国福光の大莊屋内田市太郎というものは、石見国神主村の大宝坊への借銀手配について、白砂糖六十斤・菓子料金千疋・證文ならびに書通等を、小倉にて久留米の御用達(ごようたし)大里屋善右衛門へ頼み、市太郎へ送り返してくれるよう、また白木綿そのほかは娘の兎伊へ渡したい、彼女もいづれ山内には居られないだろうと考えられるから、以前尋ねて行った母方を便りに向かえば、銀も預ってあるから、その由を申し含め下されますよう、もっとも木綿三反の内、一反は私へ渡してほしいと申したが断った。かつ長門国へ引き渡されては、とても助かる命ではないから、何とぞ所持の観音経をお渡し下さいと頼まれそれを請合(うけあ)い、経を一冊渡し、そのほかの事は萩方と申し合わせるべきだと申し聞かせておいた。翌十一日、当添田宿目明利吉方まで送り出し、当宿においては織部の荷物は筑前国小石原宿から人馬帳を添えて継込んだ所、京都中山殿御内森石見から、要用によって肥前長崎まで来させよとのことであったが、さきほどの付出(つけだし、勘定書)筑後国久留米からであり、いずれにせよ不審に見えたので、継立(つぎたて、宿場ごとの人馬の交代)はどうなっているかと小倉表へ伺い出ることになり、かつ私からも右の荷物を留め置くようにと御役人衆中へ届け出しておき、そこで右の織部のことは当宿に滞在させておき、手錠を締め猿繋ぎにして多人数の番人等を付けていたところ、十四日夜、八ツ時(午前二時)(ごろ)、番人の者が計らずも眠気を催し、物音がしたのに驚き、織部が脱走したのを発見して仰天し、皆で追いかけたが見失い、ようやく升田村にて馳け付け、同村の密ヶ獄に遁れ込んだ。同山の裏手にある上中元寺村へ頼み、前後より穿撃(せんげき)したところ、十五日朝、中元寺村馬場と申す所まで行き遁れ、織部も遁場(にげば)は無いと思い詰め、道中で自害するように見え、早速馳け付けて差し押さえたが、もはや包丁で腹を六寸(18cm)ばかり切り破り、左の手で腸を掴み出したところであったが、いまだ事切れたようには見えず、さっそく浜崎村の医師の中嶋玄通・庄村の外療医の宮城萬斎、同人の弟子二人、以上四人で救護を行ったところ、快気の程は未定といえども、ひとまず療治するだろうと申され腸を押し込め縫合した所、声を発し、十六日朝になって喰餌(しょくじ)も給べ、快方にも見えたが、夕方ごろに至って容体が重くなり、またまた医師を招いて種々の薬用を施したけれども、同夜五ツ時(午後八時)(ごろ)落命におよんだ。右の刃物については利吉の家の棚にあり、菜切庖丁にて、とにかく首輪を切り抜いたように見え、手錠は畑べりに落ち捨ててあった。観音経はどこに落したのか見つからず、(村人に)探してくれるよう、その後も度々頼んだけれども今も見つかっていない、折角逮捕を頼まれたところを、緩(ゆる)がせにしてしまい申し訳なく陳謝いたす。添田町庄屋又三郎も来て、都合同様の申し分であった。織部の事は、住所は石見那賀郡・筑後久留米両所に搆えており、金銀貸借の口入、または売卜、剣術指南をも致し、いつも御国中の熊毛(くまげ)・都濃(つの)・小郡(おごおり)辺りを通り、あるいは滞在したこともあるようで、実に悪(にく)むべきこと甚だしい者だ。死亡した時点で五十四歲であった。織部の娘、兎伊は、二十年前、中門坊に連れ帰られたけれども、彼の坊はもともと子息がいて、とくに素性も確かではない者を連れ帰ったのは、織部から銀を貰って頼まれたことではないかとの風聞もある。その後、五、六年して、宝蔵坊へ遣(つか)わすこととなった。(織部の娘を連れ帰ったのは梅本坊であると登波は言っていた。中門坊うんぬんは直横目茂助の聞いた所だ。二説は是非が決め難い。疑うらく(おそらく)は梅本坊が連れ帰って中門坊へ託したということではないか。)中門坊は先達て病死し、この時は二代目(宝蔵坊)に当る。兎伊は当年二十八歲になり、娘もいるが、父の織部が召し捕られたことを聞き、娘を差し殺して自害したとも、または逃れ去ったとも言われる。これは、かの地、その時の伝説なのであった。

さて、又三郎は付立(つけたて、帳面)を出した。すなわち左の如し。織部の所持の品々である。

   所持の品覚

一、蓙(ござ)包二つ 但し符儘(ふうのまま)

一、風呂敷包三つ 但し符儘

一、蓙二枚

一、中山殿御内森石見人馬帳一冊

一、京都中山大納言様御内森石見様行き書状一通 但し金子四両在中

一、符箱一つ

一、證文一本 但し内田市太郎

一、菓子料一包 但し金子入

一、石州大宝坊様行き書状一通

一、小財布一ツ 但し金子人

一、大小一腰 但し脇差鞘損じあり

一、筮竹(ぜいちく)袋入

右の通りでございます。以上。

  三月             添田町庄屋 又三郎

右の通り付立といっしょに荷物を旅宿に持っていき、又三郎・好助一同で立会いの上、荷物の符(ふう)を放って取り調べた所、左の如し。

   付立

一、本大小十四冊

一、経一巻

一、人馬帳一冊

一、往来手形一通箱入

一、文箱一つ

一、筮竹二通り袋入

一、棧木(さんぎ)一包

一、白木綿三反

一、袴一具

一、財布一つ

一、金子取合わせ三歩二朱 但し御初穂一封とある分とも

一、京都中山大納言殿内森石見へ佐竹渚からの書一通 但し金子四両在中とあるが不審であるため、披符(ひふう、開封)したところ鐵(くろがね)金具の様な物が三つあり

一、證文一本 但し筑後国久留米領三潴郡福光大庄屋内田市太郎より石州那賀郡神主村大宝坊あての借用銀證文なり

一、菓子料一封 但し金千疋同人より大宝坊へ宛てる

一、書状一通 但し同人より大宝坊へ宛てる

一、白砂糖六十斤

一、大小一腰

一、風呂敷大小八つ

一、目鑑一つ 家入

一、茶六袋

一、書六枚

一、鐵粉其の外一袋

一、古具足一風呂敷

一、懐中上袋一つ

一、書通其の外反古類一括り

以上

     写

  天保十一(1840)庚子三月十五日立

上銘 人馬駄賃帳

佐竹織部

右の者はこの度必要によって、肥前長崎まで来ることになっているので、その間、各宿場で川渡や人馬が止宿等で滞りない様、取り計らい頂きたい。

  子三月              中山殿御内 森石見

京都より肥前長崎迄 宿々問屋役人中

   往来手形の事

一、石州御代官岩田鍬三郎支配下

佐竹織部

右の者は、拙寺の檀那であることに紛れもありません。今般、四国遍路ならびに肥前国清政公(肥後国清政公をこのように誤っていることを笑うべし)参詣のため発足したところですので、国々の御関所で海陸とも滞りなく御通し下さい。もし、日が暮れ難渋している場合は止宿をお頼み申し上げます。万一、何国においても病気あるいは病死したとしても、こちらへ御届には及び申しません。その所の御作法で御葬り下さい。

念のため依って一札件の如し。

紀州高野山正智院末石州銀山御料那賀郡都治本郷

  天保十一年(1841)二月     真言宗圓光寺

国々所々 御関所ならびに村々御役衆中

以上

   覚

一、白砂糖六拾斤一箱

一、菓子料金子千疋一包

一、證文一通

一、書状一通

右の織部所持の品の内、白木綿三反は娘兎伊へ残してくれる様、かつ筑後国福光大庄屋内田市太郎と申す者が石見国神主村大宝坊へ宛てた借用銀手遣いに付いては、品々を御当国小倉にて大里屋善右衛門へ頼み、市太郎へ送り返してくれる様、(織部)存命の内に好助殿へ申し残しておいたけれども、織部所持の木綿は今では兎伊へ残すことは難しく、右の一つの書のそれぞれについて市太郎へ送り返すことについては、書通も申し残してあり、いずれにせよ証拠もあると考えられるので、お引渡しの間、お受取下さるべく候。以上。

  天保十二(1842)丑三月二十日

下関 弥五郎

小田 松五郎

 彦山 好助殿

 添田 利吉殿

右の通り調えて、現場を引き調べて好助へ引き渡した。好助・利吉から請取りを出した。二十日、茂助そのほか一同は、中元寺村に至り、庄屋彦左衛門および又三郎・好助・幾平の一同が立会い、遺体検分の蠣灰(かきばい)を箱詰にして添田宿まで送り出した。疵所(きずしょ)等はさきほどの又三郎・好助の言ったことに違いなし。衣類は三階菱紋付(もんつき)形付單(ひとえ)物一枚、地半(ぢはん)一枚、帯一筋のみであった。二十一日の朝に至り、織部××であることはもっぱら噂になり、かの地の役方(やくかた)の者は人夫を差出し苦しとの事に付き、弥五郎・松五郎より好助・利吉へ左の一札を出して事が済んだ。

その文に云はく、

佐竹織部のことは××であるという風聞もあるが、全くその筋にはなく、石州那賀郡都治村百姓に相違ない。よって一札を差し出しておく所件である。

  天保十二(1842)丑三月二十一日

右にて事が済み、同朝、添田を出立し、深更(夜更け)に及び、赤馬関に着船し、二十四日、萩に帰着した。さて、枯木龍之進あらため佐竹織部は、備後三次(みよし)の××であることは、登波が親しくその地に行き見聞きした所は正実なり。但し豊前にて、一時の權辭(けんじ、謙遜)により石見浪人と諸文書に見られるけれども、その実際は定かではない。

こうして、龍之進の死骸は籠屋に假埋(かまい)仰せ付けられ、御法の通り、十二月六日斬首、瀧部村に梟首(きょうしゅ、ふくろうくび)仰せ付けられた。登波はこれを知り、喜び、怒り、瀧部村へ走り行き、死首に向かって、お前は先年、父弟を切害し、夫の幸吉に深手(ふかで)を負わせ、剩(あまつさ)え幸吉の妹松をも切り殺し、立ち去り、浪人枯木龍之進、十数年の讐を報いようと、五畿七道(大和・山城・和泉・河内・摂津、東海道東山道北陸道山陽道山陰道南海道西海道)に身を窶(やつ)して尋ね求めたが回(めぐ)り逢わず、空しく月日を送った、この度、上様が御慈悲のあまりこのように仰せ付けられ、思い当たりと白眼付(にらめつ)け、短刀を提(ひっさ)げて立ち向かった。

この時の御代官役張(ちょう)三左衛門至増、その段政府へ届け出て、かつ登波に対し一生の一人扶持を立てて下さるとの事であった。

初め、直横目以下が豊前へ向かう時、登波は頻りに同行したいと願ったけれども、御作法があり、そのことは叶わずとの事で踏み止ったが、敵龍之進は彼の地にて自殺し、梟首にされ、瓢箪が腐ったような者でしかなかった、その無念さは言葉が見つからない。この様になると預(あらかじ)め知っていたら、願なく私は向かって行ったものをと、今になって遺憾であると、登波は自ら言った。登波は、常陸国若柴宿の亀松に大恩があるので、敵の梟首を告げ知らせようと、明年(1843)四月、密かに養子の鶴蔵という者、九歳になるその子を連れて若柴へ参ったが、惜しいかな、親の市右衛門も亀松も先年亡くなっており、家内の者へ挨拶を述べ、十日間ほど滞留し、帰りに日光山・善光寺等へ参詣し、その年の十月に角山(つのやま)へ帰着した。

その後、十六年目、安政三年(1856)丙辰、孝子義人の詮議が仰せ付けられ、十月、御代官の勝間田(かつまだ)權右衛門盛稔(もりとし)によって、旌表(しょうひょう)ならびに褒美の授与が取り行われたことは左の如し。

幸吉後家  登波

右、文政四年(1821)辛巳十月二十九日、枯木龍之進という者が、登波の実家である甚兵衛宅へ一泊し、父の甚兵衛、弟の勇助、夫幸吉の妹の三人を切り殺し、幸吉に数ヶ所の疵を負わせ立ち去り、種々行方を探索するようお触れが出されたが見つからず、夫の幸吉も数ヶ所の疵によって大いに衰弱し、癲癇に変わり、色々と看病していたところ、急に全快となるのも心元なく、父弟の仇を共に天を戴かざる(敵とは殺すか殺されるかの関係で、一緒にこの世に生きていられないほど)の遺恨は止む時がなく、ここで先延ばしにしてしまえば敵の行方も失い、ついには志を果せぬ結果になってしまうと、かれこれ気をもみ、夫の幸吉に相談して納得の上、心を励まし、身をやつし、郷里を立ち、山陰北陸の国より江戸に出て、奥羽および五畿内四国までも穿鑿(せんさく、調査)し、十二年のあいだ野に臥し山に臥しの艱難心苦を尽したけれども、居所はつかめず御国へ帰りかけたところ、芸州でほぼ龍之進の居所を聞き出すことができ、萩へ帰り敵を御討たせ下されと申し出たところ、彼れ等式にても御国民一統を洩れずと御座候て、天保十二年(1841)辛丑三月、捕縛人を九州の彦山へ差し向けたところ、龍之進は密かに様子を知り自殺に及び、死骸を斬罪、首は瀧部村に掛けられ御国法に処せられ、生きているうちに復響はできなかったといえども、ひとえにこの者(登波)の孝心は仁政の恩恵という形にあらわれ、かつ天地神明の冥助により宿志を果したところ、深く賞するに余りあることだ。今般、孝子義人の評議が仰せ付けられ、幸にして登波は存命であり比類なき者であるので、門戸にて表彰する。

  安政(1856)年丙辰十月

   覚

幸吉後家  登波

一、米一俵

右、先年、父の甚兵衛、弟の勇助を殺害され、横死させられた後、憤を発して復讐の事を神仏に誓い、数年覊旅(きりょ、旅、旅人)に身をやつし、ついに御威光をもって宿志を果し、寔(まこと)に抜群の孝義は感心の事である。この度、右等の評議があり、門戸での表彰に合わせ、同時に、褒美としてこれを授ける。

  辰(1856)十月

この年、登波は五十八歳で存命であり、勝間田氏の勘場(かんば、萩藩の宰判という行政区画に置かれた役所)へ呼び出され、年来の憂患辛苦を親しく問われ(取り上げられ)、前段の二事(表彰と褒美)を申し渡されれば、登波はもちろん、同席していた者一同は感泣の袂(たもと)を絞った。

この時、勝間田氏が登波を詠んだ歌がある。

向津久(むかつく)の紫菜(のり)()く袖は乾(かわ)く間()も 乾かぬ袖を獨りにぞ見る。

(向津久の奥の入江のさざ浪に、海苔かく海士の袖は濡れつつ、とよめる人丸の歌の翻案である。香月牛山が著した巻換食鏡に長門向津玄とあるのはこの場所のことをいう。)

楢崎景海(ならさきけいかい)はこの事を聞いて、「只獨り乾かぬ袖のそれ故に幾その人か捨ほぬらすらん」と詠んだ。

夫の幸吉は家を出て、後に行方知れずとなった。登波が美濃の国を去ったあとへ、数日して尋ねて行ったのだった。その事は、諸国をめぐり、再びその地に帰ったとき、登波は初めて聞いたけれども、もはや尋ねる方法がなかった。帰国の後、石見の津和野辺りで夫が病死したと告げる者がいたけれども、これまた確かではないことだったので、それのみで打ち過ぎていたが、今年、安政四年(1857)丁巳九月、私の友で画工の松浦松洞(まつうらしょうとう)が角山に行き、烈婦登波に会い、話したところ、これほどの貞烈(精神強き)の婦として夫の死所をそれなりにして置くことは如何なものかと詰(なじ)ったところ、直後に登波も大いに感激し、早速装を束ね、十五日の朝から家を出て、石見に行き所々を探索したが、二十六年前に幸吉という者が津和野で病死したことを聞き、行って尋ねたら、それは紀伊人とのことでしかも医書一巻を所持していたことであるならば、わが夫ではなく、前に津和野で幸吉は病死と伝へたのは、多分この人だろうと思い、他に尋ねるべき手がかりがなく大いに力を失い、所々の宮番へ、もし知る事があれば、申し送りくださいと頼み置き、空しく帰ったのだった。この帰りがけに、わが家に立ち寄ったので、詳(つまびら)かに討賊の始末を聞き、その口説で原稿を改竄(かいざん、松陰による修正)したことは、その通りである。幸吉の死所が知れないのは、幾重も遺憾だけれども、松洞の一言の下に感激して直ちに石見に走るのは、則ち感ずべきのみ。

その後、戊午の年(1858)、御両国中町地方(まちぢがた)孝人、奇特人、その外、褒美の評議が行われたとき、登波と小郡台道(おごおりだいどう)の石(いし)、都濃郡深浦(つのぐんふかうら)の正(まさ)、三人は孝義抜群で、老極の者もいたけれども、もしやこの議半途中に意外の事があってはということで、□月□日、三人のみ引き抜いて褒美があった。時に、登波は向後(これより)宮番の唱(となえ)が差し除かれ、平民一統の戸籍へ加えられるとの事であった。よくよく登波が平民に加えられることは頗る大議であり、初め周布政之助兼翼(すふまさのすけかねすけ)が御代官であった時、政府へ申し出たけれども、政府にて先例がないために、事はしばらく中止となった。すでに、政府より郡方(こおりかた)へ、先例はないかと問い合わせたが、郡方本締(もとじめ)佐藤寬作は答えて曰く、「昔、秦人が松を以て五大夫とした。これが何で先例に預からないだろうか。天下孝義より重いものはない。登波は賤しいといっても、どうして松の比較にならいであろうか。松の功は、登波の孝義と同じではないだろうか。そして、宮番がこのような復讐を果たしたことも又先例はない。非常の事であればこそ、非常の賞は素(もと)より当てられることだ」と。政府は一咲(しょう、笑)して終わった。ひとり唐船方(とうせんかた)の中村道太郎清旭曰く、「孝義は固より重い。しかしながら、本邦はなるほど名分を重んじて種族を分けている。この議を軽易にしていられようか。この議を慎重するのは、即ち孝義を重んじるゆえである」と。ここに於いて、儒者近藤晋一郎芳樹(よしき)に命じて、これを議論させた。芳樹は古史を引いて例とし、この議を疑ってはいけない理由を建白した。政府はすぐにその議を探り、かつ登波が素性(すじょう)播磨の百姓で、幸吉も元来奥阿武郡の百姓であり、一旦宮番となったとはいっても、賤を放って良に還すという訳であれば疑いなしと決した。鳴呼、これ登波の栄だけではなく、実に政府の美事と称すべきだ。

   附書

石の事跡は、諸家の詩文歌詠の寄贈も少なくなかった。就中(なかんずく、その中でも)先輩楊井(やない)謙蔵が贈った長篇の詩は、五山堂詩話(さんどうしわ)(4)にも記載があった。また勝間田盛稔(もりとし)が小郡(おごおり)代官であった時、撰ばれた蓬生(よもぎ)の麻(あさ)とて(良い環境でまっすぐ伸びること)、石の事跡を記したものがあった。また柴田鳩翁(しばたきゅうおう)の道話続々篇には、とても詳しくこの事が説かれていたので、世の人は皆知る所となった。ひとり正の孝は、石よりは優れるように思われるが、世の人は未だこれを伝えていないので、爰(ここ)に戊午の歳、褒称の詞を直ちに附書(つけがき)し、人々にその大概を知らせる。松洞画史はふたたび会いに深浦(ふかうら)に往き、正の像を肖()せ帰り、家に所蔵した。おそらく不朽を謀ったのだろう。褒称の詞に言う、

 都濃郡宰判末武下村(すゑたけしもむら)庄屋堀吉郎右衛門存内深浦畔頭清木八郎右衛門組百姓

宇吉祖母  末左

右の者、当年九十六歳になっており、両親が存生中には孝養を尽くし、父の助八は八十四歳で亡くなり、母は数年、眼病を煩い、終に盲人になり、九十歳ばかりで死去した。かねて貧窮者であり田畑等もなく、預り作などしていた。あるいは落葉を拾ったり、牛馬飼草を売代(うりしろ)としたり、女身でも艱難辛苦を厭わず、いろいろと働き、日夜孝養にのみ心力を尽したので、近辺の者も見兼ねて少々宛ての助勢をしたが、落葉刈草でもってその礼意に報じ、以前、養子はいたが貧窮を見限って家出し、その後も養子を勧められたけれども、夫がいては却って両親への心添が疎かになるので、両親が死去した後は尼になっても後世を弔い申すべしだと、終に縁辺せず、孝心の外、更に他念なく稀なる孝行の者に付き、追々御褒美を遣わされ、公辺の御付出(つけだし)にも加わり、宅前へ孝女満佐と記録し、石建調が相成り、一生独身でおり、只今の宇吉は姪の子でこれまた祖母へ懇ろに仕え、家内は睦まじく暮し、満佐は多年の辛労孝女の名誉を得た。奇特の行状(日々の行い)と稀なる高寿、旁々(かたかた、いずれにしても)委細を靱負殿(5)に聞き届けられ、甚だ神妙の事であるから、間近く身柄(みがら)一生眞綿をも立下されども、なお又厚き御詮議でもって御褒美のため永く名字が差し免(ゆる)された。

   盗賊始末取徵文書

幸吉口書(供述書)一通

登波口書一通

田中文後日書一通

登波申上一通

(1840)十月登波申分一通

目明松五郎申上一通

大庄屋久保平右衛門書一通

大抵記一巻 静間衡介記

登波申分書取覚 同人

烈婦登波碑文附紙 同人

愚問答書 同人

直橫目茂助取捌一件一巻 茂助記

 その他、地名を知るのが難しい者は、国郡全図・赤水与地図(せきすいよちづ)(6)長門絵図・同附録・諸国道中袖鏡・永代節用無尽蔵等に據()って是れを決した。

 

   列婦登波の碑

烈婦、名を登波、長門の国大津郡角山村(おおつぐんつのやまむら)の宮番幸吉の妻なり。父を甚兵衛といい、弟を勇助といった。また幸吉と職を同じくし、豊浦(とよら)()の瀧部(たきべ)に居た。宮番の職は神祠を掃除し、以前から盗賊を緝捕(しゅうほ、逮捕)するが、良民に加えられる所とはならなかった。そうして三人は任侠を自負し、剣客博徒は往々にして彼らを避けていた。幸吉に妹松(まつ)がおり、枯木龍之進の妻となった。龍は備後の××であり、自らは石見の浪人と称し、妻を携えて諸国を往来し、撃剣を人に教えていた。文政辛巳(1821)十月二十九日の夜、枯木夫妻は幸吉と同じく甚兵衛の家で会した。龍に先妻の一女がおり、甫(はじ)めて八歲、時にこれを乞兒(ほかいひと、こつじ、乞食)の小市の所に匿(かく)した。龍はすぐに妻を幸吉に託してひとり上国に遊ぼうとし、実はここを去ろうとしていた。その妻と幸吉はこれを知り、切にその非を責めた。龍は心持ちを殊に悪くし、それが為にその場に居合わせたものは彼を慰め解いていた。そうして龍は遂に松と婚を絶ちまさに去ろうとした。時に、夜暗く雨は激しかった、甚兵は彼を留め宿した。丑夜(午前二時)、龍が起きてことごとく甚兵・勇助・幸吉および去妻を刃()りて去った。三人は即死し、ひとり幸吉のみ殊()えなかった。烈婦は、變を聞き、急きょ趣き(事情)を掬おうとしたが及ばなかった。首(はじ)め、復讐を請うた。このため藩は龍を追捕したが獲らえることはなかった。しばらくして、幸吉の創(きず)は稍(やや)()えたが、転じて他の症となり、蓐(じょく、草で作った敷物)に在ること五年、烈婦の看護は具(つぶ)さに到っていた。けれども烈婦の心は常に大讐の未だに果たせていないことを悼み、また夫の病は輙(たやす)く起きてはならないものだと思い、間に乗じ夫に志を語った。幸吉は大いに悦んで言った、「かの賊は既にあなたの父弟の敵であり、また我が妹の敵だ。私はあなたと長らく偕老を契った(夫婦が年取るまで仲良く暮らした)、あなたの父弟はなお我が父弟のごときである。今、私は不幸にして病を発してしまって、假令(たとい)あなたを助けて復讐を果たすことができないといえども、どうしてあなたの志を礙(さまた)げることに耐えられるだろうか。あなたは速かに出て賊を探せ。私も病が少しく平常になればすぐに追ってあなたを助けにゆくのみ」と。烈婦は、且つ泣き且つ拝し、行装して家を出た。時に乙酉(1825)三月なり。時に年二十七。

烈婦は既に家を出て、山陰より東に上り、近江・美濃を過ぎ、伊勢より紀伊を回(めぐ)り、京畿諸国、遺(あま)すことなく捜索した。ここにおいて、賊はもう近くにはいないと考え、中山(7)より東へ下り直ちに南部の恐山を極め、奥羽を探り関東を捜し、北陸を経()て、東海を歴(めぐ)り、転じて南を周(まわ)り、反転して安芸を過ぎ、旅へ出ることおよそ十二年、辛苦を具(つぶ)さに嘗め、しかる後に賊の居所を詗察する(けいさつ、探し当てる)ことができた。龍の娘で乞食の所に隠した者は、彦山の山伏が收養する所となり、既に成長して人に嫁し、龍の母は備後の三次(みよし)に居た。それ故に龍は時(とき)に或はその間を往来した。烈婦は既に具(つぶ)さに成果を得て、大いに悦んで国に帰り、事の次第を官に申し上げ、復(ふたた)び復讐を請い願った。しかし許されなかった。烈婦が家を出てから一年後、幸吉が病を無理して旅に出て賊を探したが、その終る所を知るものはいなかった。烈婦は痛哭(つうこく、大いに嘆き悲しむ)して志を秉()(つかむ)こと益々(ますます)(かた)く、急ぎ彦山に如()きて賊を撃たんと欲した。烈婦が東海を歷ったとき、ひとり常陸に留ること三年、助けを求めて亀松を得た。亀松は筑波郡若柴駅の民で、固より壮健で義を好み、烈婦の志を憐れみ、復讐を助けることに賛同した。ここに至り首(しゅ)としてその謀に賛成し、因って与(とも)に下関に至ったが、代官所の追止する所となった。藩はすぐに追捕を彦山に派遣し、賊の状況を探問させた。天保辛丑(8)(1841)三月、賊は捕えられて自殺した。因って、瀧部村に梟首した。烈婦は走り首の下につき、ヒ首(ひしゅ)をこれに擬し、睨み且つ罵って言った、「お前がどうして私を覚えていようか、私は甚兵衛の女(むすめ)、勇助の姉、そして幸吉の妻だ。お前は私の父と私の弟を殺し、私の夫を傷つけ、また夫の妹を殺した。私はそのために敵を報いたいと思い、五畿七道を、ほぼ探し尽した。そして一撃をお前の身に食らわせることができないこと、これが私の憾(うら)みだ。けれども天道国恩は遂にお前をこの状態にした。お前はお前自身の罪を知れ。私を覚えているか」と。時に本郡の代官張君至増(ちょうくんしぞう)(9)は、これを義とし、建白して一口米を賜りその身が終らないよう(生活が困窮しないよう)にした。安政丙辰(1856)、藩命は、孝義を旌表した。代官の勝間田君(かつまだくん)盛稔は烈婦を建白して、その門戸に旌表し、特に米一苞を褒賜した。明年、余君(10)に代り来てこの郡を司った。思うに、幸吉は先に身を没したといえども、志は実にその妻と同じであれば、則ち夫妻は永くその宮番の職を免じて、良民に加えられるべきであると。藩議は審重(しんちょう)で、月日(11)に許可が出た。余すぐに因って郡を巡(めぐ)りて烈婦に対面した。烈婦は、時に五十九歳、身体健全にして容貌は未だ衰えていなかった。彼女にその復讐始末を語ってもらい、感慨悲惋(かんがいひわん)、涙を流しながら話した。余既にその志を悲しみ、又その事の久しくして或は泯滅(びんめつ)してしまうことを恐れた。ここに於いて碑を建てて文を勒し(ろくし、書き記し)、その跡を紀(しる)し、その烈を表し、これに重ねて銘を刻んだ。銘に言う。

混々原泉、于海朝宗。洋々大魚、龍門篇龍。懿矣烈婦、習坎惟通。身雖賤兮、門閭表庸。

(こんこんたるげんせん、うみにちょうそうし。ようようたるたいぎょ、りゅうもんにりゅうとなる。いなるかなれっぷ、しゅうかんこれつうず。みいやしといえども、もんりょいさををひょうす)

混々とした源泉が、海へと流れ入り、広い世界に飛び出した大魚は、龍門に入り龍となった。

信念を突き通した烈婦は、大いなる壁を突き破り、低い身分といえども、政府はその功績を表彰した。

 

右の擬稿がほぼ完成した。宮番が良民に加わったのは、藩に故事がない。それゆえ、藩庁の議論は間延びし、建碑の事もまたしばらく停止となった。しかし、烈婦の事跡はここに至ってその粗(あらまし)を得た。後に作る者がいれば、また取る所があろう。丁巳(1857)7月既望(きぼう、16日夜)、識す。

戌午(1858)の冬、登波は特別に良民に加わった。そして公輔(こうすけ)はその時ここを去って他の職となり、建碑の事は遂に議論されなくなったという。重ねて識す。巳未(1859)五月。

 

(1)正しくは高津である

(2)石廊崎にある

(3)先大津の目明

(4)高松藩詩人菊池桐孫、号は五山の著、十三巻

(5)浦鞘負、老臣〔関伝〕

(6)水戸の地理学者長久保赤水の作った地図

(7)中仙道と同じ

(8)十二年

(9)張は姓、至増は名

(10)周布公輔をさす

(11)未だ藩許の前にその許可が出る予想の下に書いたので建碑の時に某月某日とするつもりであったのであろう