初投稿

2020年3月4日に「はてなブログ」にユーザー登録して以来、約3か月ぶりにログインして初めての記事を投稿します。もともとブログ移転をしたいと思って登録したものの後回しにしてしまっていました。このあとトライしてみようと思います。

 

つらつらと取り留めもないことを書いておきます。本日2020年6月7日の天候は晴れ。前日にものすごい大雨が関東に降り、ところによっては雷や雹もみられました。今日は、梅雨入りする前の気持ちの良い日です。

 

現在、『漂泊者のアリア』(古川薫)を読んでいます。

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オペラ歌手、藤原義江の生涯を描いた小説で、

  • 第1章 流離
  • 第2章 ミラノの空
  • 第3章 ナポリ港の夕陽

の3章からなり、第1章が全体の半分ほどあります。義江の生い立ちから学校でのトラブル、演劇に関わっていくまでが描かれている様子を読み進め、20歳の義江が大阪から新しい舞台を求めて東京へと向かうところまできました。

 

ネットで拾った画像「府県廃置法律案付図」です。

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明治36年(1903)12月に閣議決定された「府県廃置法律案」付図

現在の都道府県の行政区分よりも大きく分けられているのが面白いと思い保存していました。Twitterでもさまざまな論争があったかと思います。

吉田松陰全集 第4巻 (岩波書店, 1940) 盗賊始末 [現代語訳]

盗賊始末

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048658 P.411(コマ番号210/241)

   敍

安政3(1856)、藩の命により、善行者の表彰があった。ここで、都濃郡(つのぐん)に正(まさ)というものがいて、吉敷郡(よしきぐん)には石(いし)というものがおり、二人とも孝婦であった。そして、大津郡にもまた登波(とわ)というものがいた。登波の事は最も烈であった。正はその身ひとつで老父母を養い、入り婿は一度去ってしまったが永遠に誓って嫁がなかった。石は独り寂しい寝室で病める舅姑(きゅうこ、しゅうととしゅうとめ)を介護し、貞節な夫の感じるところとなって、夫は家を出ることはなかった。これらのことは今の世には少(まれ)な所だ。正は年齢九十四歳、石は六十八歳、今も存命である。二人が並んで表彰を受けるのは、なんと栄えあることだろう。そうして二人の貧苦艱難は多くの年月を経て、誠に人の堪えざる所が多いけれども、それでも平常の事ではある。登波に至っては、しかしそうではない。強敵が襲来して、その人物の所在が分からなくなった。捜して見つけることができなければ死んでも返らないと自らを顧みず、たとえ捜して見つけたとしてもその反擊を恐れていた。決して、ただ流離奔走、困厄艱難のみだったのではない。(登波について)初めのころは、懦夫(だふ、臆病な男)が嫌う所であり、あるいは俗人が怪しむ所であったかもしれないが、その志が遂げられ功が成った今では、喜び認めざる他はなく、一気に進んで二孝婦の間に列(つらな)って光があった。今年(1857)、私は大津郡代(ぐんだい)()周布公輔のために烈婦登波の碑稿を仮で作った。登波が志を遂げたのは、今を距(へだ)てておよそ僅かに十七年前である。登波の年は五十九、今なお存命である。しかし事実が転化し、文書が錯乱して書き残すことができない状態に至っている。郡代の役人静間(しづま)衡介という者は、古を好み、義を重んじていた。前代()の時より深くその行いが埋もれてしまうことを惜しみ、古い文書を点検し、また登波、村の老人たちおよびその事を知る者に歴問して、大抵記(たいていき)を作り上げた。私もまた心を尽くし、知友を通じて当時の文書を数通得て、それらを用いて碑稿を作り上げた。碑稿はすでに出来上がったけれど、事実がなお抜け漏れて棄て忘れてしまうのには忍びないものもあった。ここにおいてまた討賊始末を作る。噫、登波の烈は二孝婦に並んで光あり。これを千秋に伝えて訛(あやま)らず、錯(たが)わず、その証とすべきものは、あるいはあなた方がここに観るものがそれであろうか。

安政四年(1857)六月二十五日、二十一回猛士藤寅書す。

 

ここに長門国大津郡(おおつぐん)向津具上村川尻浦(むかつくかみむらかわじりうら)、山王社宮番(さんのうしゃみやばん)幸吉の妻で、登波という烈婦がいた。その実家の父は甚兵衛といって、豊浦郡瀧部村(とよらぐんたきべむら)八幡宮の宮番であった。瀧部もまた大津郡代の宰判(さいばん、萩藩の行政区分)であった。宮番といえば、乞食非人などに比べて××より又一段と見下げられている者であったが、かの幸吉夫妻の振舞いは天晴(あっぱれ)大和魂の凝固(ぎょうこ)した士大夫(しだいふ)にも恥じない節操であった。さあ、その由来を解き明かしてみよう。

幸吉は、原(もと)は国内の困窮百姓で、母親と妹を連れて赤馬関(あかまがせき)に流れ落ち、物貰体(ものもらいてい)に成り、ついに奥小路(おくしょうじ)水ヶ谷(たに)という所の宮番に養われ、その後に川尻浦へ来たのだった。登波が幸吉に嫁いだのは十五歳の時で、下関に滞留中の事であった。幸吉はその時二十三歳。登波の父甚兵衛は、原(もと)は播磨荒井の百姓だった。登波が七歳の時、母親に連れられ、姉伊勢(いせ)・弟勇助と皆合わせて四人連れで、荒井を出て下関に来て滞在していた。父甚兵衛もその年のうちにあとから来ることになっていた。母は程なくして亡くなり、姉はのちに俵山(たわらやま)の宮番に嫁いだ。幸吉の妹で名前を松という者もまた、下関で奉公稼(ほうこうかせぎ)をしているうち、石見人浪人枯木龍之進(かれきりゅうのしん)と称する、売卜(ばいぼく=占い商売)または棒業(ぼうわざ)剣術指南などして諸国を徘徊する者に嫁いだ。これは幸吉が登波を迎えた時から四、五年も後のことであった。この龍之進、実は石見浪人ではなくて、安芸領備後三次(みよし)××であることは、後になって知られることであった。

こうして松は龍之進に従って諸国を徘徊し、文政三年(1820)十二月、夫婦連れで幸吉の家に来て、翌辛巳(しんし)の年(1821)正月まで滞在した。初め、登波は幸吉に従って川尻に住み、松は龍之進に従って諸国に流浪していた。ここに来るまで未だ彼女らは対面したことがなかった。対面したのはこの時が初めてだというのだ。

すでに龍之進は九州あたりへ行きたいのだといって、妻の松を預け置いて旅立ってしまった。同年(1821)四月に、先妻との間に生まれた女子、九歳になる千代という者を連れて来て、五日ばかり滞在した。そのとき龍之進が言ったことは、「上京したい思いがあり、支度をしてあるので、しばらく女(むすめ)を預けて置きたく、決着すればきっとまた戻ってくる」といって、その身一人で出立した。

その後、十月二十二日、松は、登波の身元の弟勇助へ相応の婦(よめ)が下関にいるというので、相談のために瀧部村の甚兵衛宅へ向かって幸吉の家を留守にしている所へ、二十八日の昼前、因幡(いなば)浪人と唱える田中文後という者が、幸吉の家へ来て、今日、枯木龍之進に対面したところ、「龍之進の妻、松がこの家に滞在しているから、明朝、新別名(しんべつみょう)村の人丸峠(ひとまるとうげ)大願寺まで連れて来るようにと、龍之進から頼まれました」と言うので、「松は六日前に瀧部村へ行った」と答えた。彼是(かれこれ)応答している間に、午後二時過ぎになって龍之進も来て、「今晚大願寺へ一宿を頼んだところ、彼の寺は故障しているから泊まれず、われ等もここへ参った。さて幸吉殿、われ等は彌々(いよいよ)上京することに決した。この度は、娘も連れていくつもりだ」との事を言ったのに対して、幸吉が答えたのは、「娘を連れていくからにはきっと帰国は未定なのだろう、妹の松は置き去りにするつもりなのだろう、自分の生活を凌ぐのが難しい時は、松や娘を預けておいて、今になって少々工面が付くようになれば、松を置き去りにして遠路御旅行するつもりだとは、言語道断の不人情な人間だ」と、幸吉は声高にせり詰めたところ、龍之進は辭(ことば)を受け流し、文後へ向かって言うには、「途中でも話したように、上京するのに女房同道では志願も叶わなくなる、離縁もした義理ある妻のことであるから、銀三百目くらいは渡すつもりなのだ」と話していると、幸吉は聞き取り、「銀子(ぎんす)を付けて離縁するなどとは、下賤な私共とて迷惑千萬、心底恥ずかしい、先程のことならば縁を切って離縁するよう(松に)言うから、兎も角も、松がいる瀧部村の方へふたりとも御同行するために、今夜は私の家へ御泊りなされ」と言って、翌朝、龍之進と娘千代・文後・幸吉の四人連れで瀧部村へと出立した。文後・幸吉は五里(20km)の路を進んで、午後五時頃に甚兵衛宅へ往き着き、前段の趣旨のことを、松ならびに甚兵衛とも話し合い、暇を取り離縁することに荒方(あらかた)決着した所へ、龍之進は、さきほど一同で出発して、途中栗野川口(あわのがわぐち)渡場にて、この辺りに少々所用があるので文後・幸吉は先へ参られよといって、娘を連れて渡守の固屋へ立ち寄り、ちょうどその時に一、二夜泊っていた、肥前国河原村生まれの無宿非人(むしゅくひにん)小市という者へ娘を預けて、夜八時ごろに(甚兵衛宅へ)やって来て、甚兵衛ならびに松とも対面で彼是噺し合ううち、龍之進は甚だ薄情であると、幸吉・松から迫(せり)詰められ応答する事が難しいほどであったけれども、結局は離縁に双方で折合が付き、手切の驗(しるし)として銀三百目を龍之進から松へ渡すことで落ち着いた。ただし、三百目の内、百七十目は前もって下関で松へ渡しておいた。今夜、三十目だけ実際に渡し、残り百目は文後を仲人として、きたる正月を期限に幸吉へ送るなどと龍之進は言ったけれども、幸吉・松はさきほどから金銀にこだわる訳は毛頭なく、かえって心恥ずかしいことだなどと罵る程の事になったので、何もかも龍之進が言うままで離別書を申し受け、事が済み、龍之進も酒一升を買ってきて、皆で呑み合いなごやかに折り合った。そうこうするうち午前零時過ぎ頃になり、龍之進は娘千代を近所へ預けていたので、嘸()ぞ待ち兼ねているだろうと、今からすぐさま出立するべきだと支度をしかけたけれども、闇夜の上に雨が頻りに降り、雨具の用意もなかったので、甚兵衛が「今夜はお泊りなさい」と親切に述べたところ、しばらく休息しますと、奥の三畳へ文後とともに入って横になった。

この夜、甚兵衛の家には勇助、滞在していた松の三人のほか、午後八時頃より美祢郡嘉萬(みねぐんかま)村百姓の利右衛門という者を止め宿していた。もっとも彼については、爐()の脇に寝かせていて、龍之進・文後と一向に出会うことはなかった。かくして、午前二時過ぎに龍之進が、「もう出なければならないので、茶を沸かしてほしい」と言ったので、甚兵衛・勇助が起きて茶を沸かし、飯を喰わせている時、文後も同じく起きてきて別れの挨拶をしたけれども、雨はなお降って止まず、龍之進は障子を開けてたびたび空を見上げるうち、内輪(うちわ)の者たちも少しまどろみ、文後はさっきの三畳へ入って横になり、また少し眠っていたところに、龍之進は燈火が消えたと言って松を呼び起こし、「付木(つけぎ)を取ってきてくれ」と言った。松は、「付木は仏壇の下にあります」と寝ながら答えたところ、甚兵衛が、「勝手不案内の人には分からないだろうから、お前が起きて火を付けてあげなさい」と言ったけれども、松は、離縁の人にそこまですることはないと起きなかった。甚兵衛は聞き兼ねて、私が付けて進ぜようと起きてきて、火を付け、外へ薪を取りに出た。そのあとに、龍之進は、松および幸吉・勇助の三人をことごとく切害(せつがい)した。甚兵衛が外から帰って来た所を戸口で切り倒した。甚兵衛はこの時、大きな煙管を所持していたが、それをかなり疵付けるほどであった。おそらく、その煙管で数回は受け留めたように見えた。文後は寝ていながら右の様子を聞き、そのまま出ていこうとしたが、帯を解いて寝ていたので、帯をむすびむすび出ていき、開いた戸口から覗き見ると、暁方(あけがた)ごろ、戸口に甚兵衛を切り伏せ、庭の垣の近くに龍之進が抜身(ぬきみ、刀)を引っ提げて歩いてきたので、これは何事だと声を掛けると、龍之進は大声で「言う通りにしないと共に討ち捨てるぞ」と言うので、畏る畏る座敷の隅に隠れていて、夜が明けて外へ出て見れば、幸吉・松・勇助の三人とも同じく座上に切り殺されていた。(文後は)嘉萬の利右衛門が庭の隅に屈んでいるのを見つけ、互いに協力し、隣家が遠い一軒家であるので、文後は外に出て、人殺しだ人殺しだと声を立て、利右衛門は急いで目代(もくだいしょ)へ届けに行き、朝八時ごろ帰ってきて、文後とともに戸口に伏せていたが、甚兵衛が未だ息絶えていなかったので、助けて座敷に引き上げたけれども間もなく絶命に至ってしまった。勇助は即死であった。松は十一月三日の夜までは存命であった。時に、甚兵衛五十四歳、勇助十九歳、松二十九歳。幸吉は、正気も慥(たし)かな様子だったので、頭に手拭いを巻いて介抱などしているうち、地元の人々が追々集まってきた。

龍之進・文後は互いによく知った仲である様子になったのは、今年の春になる前に、大津三隅村(おおつみすみそん)にて同行して一宿したとき以来のことであり、浪人付合(つきあい)で、親密な間柄になったが、この度も龍之進の手先として遣われたことになったと見える。この一夕の始末を見ても、文後が臆病なのはもとより、龍之進のふんどし担ぎであることが分かる。

幸吉の妻、登波は、川尻でひとり夫の留守を護っていたが、十一月一日の日暮に走って告げに来た者がいて、二十九日の夜、瀧部にて大変があり、詳しい事は小觸(こぶれ)の所に飛脚が来ているので、直(すぐ)に会って尋ねるべきだと言った。この時、登波は飯を移そうと杓子を持って庭に立っていたが、これを聞いてすぐ赤脚(はだし)走りで走りながら聞いたところ、飛脚が言うには、四人が切害にあったが、そのうち年長の人と年少の人は即死だったらしい。聞いたことから、父甚兵衛・弟勇助の事であることは間違いなければ、莊屋(しょうや)大田市郎兵衛方へ駆けつけ、只今から瀧部へ駆けつける事態だと伝えた。莊屋が言うには、中々ひとりで行くことは不安心だから、五、七人くらい頑強な者を伴って行かないと危ないとして、強く登波が行くのを止めた。また小觸の所へ往き、飛脚へ同行を頼んだ。飛脚は夜が明けなければ行かないと言ったので、終夜腰を掛けず立ちながらで待った。心があまりに急かされ、飛脚を強引に起こし、午前四時に出立し、二日の朝八時に瀧部へ到着した。案に違わず、父甚兵衛・弟勇助が死失(しにう)せ、幸吉の妹松、夫幸吉は大瘡(おおきず)にて横たわっていたので、これまでは變を聞きながらも現実とは思わなかったが、この有様を見るからには驚くとも怒るとも無念さは言葉にならなかった。十一月一日、御従目付(おかちめつけ、監視人)前原忠右衛門・村田満右衛門が出張し、同月十四日までに御究(おきはめ、現場検証)の一件が済んでいた。登波は如何とも詳しく調べることができず、出張の役人へ、どうか御慈悲をおかけください、私に敵を御討たせくださいと嘆願申し上げたところ、今は左様のことには成らないのだとして、この後、敵の住所を尋ねたが、その時の御捌方(おさばきがた)があるであろうとの事であった。こうした上にも、検断目明(けんだんめあかし)等に種々、龍之進の行方を尋ねたけれども、逐に知ることはできなかった。

さて、離縁のことは双方が納得の上、酒をも給合(たべあ)った程のことで、遺恨あるまじきことのようであるにもかかわらず、多人数の殺害に及ぶとはいかなることかと、御究(おきはめ)のとき、再度正しく取り調べが行われたけれども、幸吉・登波ならびに田中文後などが申し上げることは皆同様で、龍之進は元来易数(えきすう、占い)を考え、棒その外を指南し、威權(いけん)がましい男であるのを、離縁の一件で、悪様(あしざま)に申し上げたこと、夜明け前、付木(つけき)を尋ねられた時、松は不精(ぶしょう)の返答をしたことのほか、特に殺害に及ぶような心当たりはないと一同は言ったのだった。しかし再びその実際のところを考察すると、龍之進は別に密通の女がいて、松を嫌う心になり、夫妻の仲は和睦しなかった。したがって幸吉とも不快になり、加えて、松が甚兵衛方へ行くことによって、妄りに嫉妬の念が(龍之進)に生じたことかと思われる。要するに、その悖亂狂妄(はいらんきょうもう)は、やはり人理をもって論ずるに足らない。

登波は、心がはやって焦る思いであったけれども、夫の病気に頓着(とんちゃく)して日を送るうち、幸吉の瘡も翌午年(うまどし、1822)の早春頃には、ある程度快気(かいき)して、二月十一日には召し出され、右の始末御究を仰せ付けられたのだけれども、何分、数ヶ所の瘡によって大いに否拔(ふぬけ)になり、かつ身体も衰弱してしまい、以前のように働くこともできず、一年は所詮(しょせん)病床勝ちになって田畑へも出ず、後々には癲癇病に変わって、折々に発病して難儀していたが、登波は至極懇切に看病をして、寝食の事について何かと朝も暮も気を付けたけれども平癒しなかった。かれこれ、三、四年も過ぎ、登波は心の底では父弟の横死を悼み、遺恨は止む時がなく、復讐の念が勃々と差し起こり、寝食も忘れて憤発(心が奮い立つ)していたが、このまま月日が去ってしまっては彌々(いよいよ)仇の行方も掴めなくなり、ここ数年の志願は空しいものになってしまうと、それのみを苦心していて、ある日、松は幸吉の病の間を伺って、密々に心のうちを語ったところ、幸吉が申すには、あなたの父弟ではあっても、数年夫婦として契り過ごしているのであるから、私にもやはり父弟同様の事と思っている、しかも妹の松を切り殺した仇なのだから、私も共に敵打ちの心を助けたいと思っているけれども、病苦に頓着してこれまで空しく時が打過ぎてきたが、あなたの思いを聞いたからには月日を移さず速かに出で立つべきだ、私も全快すれば後から尋ねて行くからと言えば、登波は世にも嬉しげに夫に厚く礼を述べ、志を励まし、そして夫に気を付けてくださいよと伝え、懇意の間柄の人へ頼み、彼女らしい、旅装というほどのものでもない格好で、文政八年(1825)乙酉(きのととり)三月、懇ろに別れを告げて家を出立した。これは瀧部の大變から五年目のことで、この時、幸吉は三十九歳、登波は二十七歳、登波が、幸吉に嫁してから九年目の事と聞く。決して考えて行動できるようなことではなく、踏み出した登波はこれこそが今生の別れとなった。

かくして、登波は川尻を出て、萩を通り、奥阿武郡(おくあぶぐん)から石見(いわみ)へ移り、津和野(つわの)城下を越え、高角(1)人丸社へ参詣、浜田を通り、銀山・大森を経て、芸州筋の事も聞き合わせたけれども、龍之進は広島あたりではいずれも足が付かず、兎角、四人も切害に及んだ大惡ものであるから、近国に留まるまいと思って、出雲を越え、大社・日御崎(ひのみさき)等へ参詣し、松江辺りをかれこれ探し、伯耆(ほうき)の大山(だいせん)因幡鳥取の城下を通り、但馬・丹後・若狭に出て、この辺りで酉年(1825)は越年(ゑつねん)したのだった。同(文政)戌年(いぬどし)(1826)に至り、近江・美濃・伊勢・紀伊へ廻り、高野山へも立寄り、女人禁制の場所までも参って、和泉・河内より大和に至って越年した。登波は、つらつら考えることには、京都・大坂は人々がいつも往来して立ち寄る地となっているので、悪者共は決して足を止めるまいと思い、大和から伊賀を経て、また近江へ立ち戻り、大津駅から三井寺比叡山その外を打廻り、京都中の神社仏閣を数々拝礼して、丹波の亀山・摂津勝尾寺・播磨書寫(しょしゃ)山から大坂へ出て、淀船で伏見に上った。そのあとも賊はとうとう内近国にはおらず、奥羽・関東へと立ち去ったのだろうと思い定め、美濃より木曾地(中山道)を東へ下り、信濃に入り、飯田の城下を過(よぎ)り、上諏訪・下諏訪・和田峠を通り、善光寺へ参詣し、越後を過(よぎ)り、今町を通って新潟に至り、陸奥(むつ)に入り、会津の城下を通り、仙台に出て、なおまた東へ下り、南部の恐山(おそれやま)に参った。恐山は陸奥の東北の果てで内地はここに尽き、海を隔てて蝦夷松前に連なる所である。

さて、そこから津軽に向って出羽を廻り、また陸奥にかかり、岩城を通り、常陸(ひたち)に出て、筑波山に登り、下野(しもつけ)の日光山へも参詣し、遂に江戸に出てきた。およそ三年滞在して、その内、所々、方々を尋ねた。

それから水戸の道中で、常陸筑波郡の藤代宿にも滞在し、また同郡若柴宿の百姓、市右衛門という者の家へ宿泊した、この時(登波は)年三十三で、不意に病気づき、百日あまり寝込んでいたところに、亭主が殊のほか親切に保養してくれて、快気した後、上総・安房などを打ち廻り、また若柴へ戻り、以前の礼として奉公するため滞在し、農家の手伝いをして、一年ほどここで過ごした。       

時は過ぎ、宿所を出発し、江戸から相模を通り、伊豆の最南の出崎、手石(南伊豆)阿弥陀・イロウ(2)權現までをも拝礼し、東海道筋へ出て、また遠江(とおとうみ)の秋葉・三河の鳳來寺等へ立ち寄り、宮(みや)の渡(わたし)を打ち渡って奈良を通り、紀伊国加田(加太?)へ出て、十三里の渡りを亙(わた)って、阿波の撫養(むや)へと上がり、土佐に移り、伊予を通り、讃岐から備前田ノ口へ上り、ところどころ尋ねたけれども、終に行方を知ることができず、また常陸の若柴宿に向かって帰っていった。

以前、市右衛門宅で病気の時、もはや快気できるかはっきりしないと覚悟をしていたので、亭主へ詳しい事情を物語っておいたのだが不思議に快気したのだった。ここに、市右衛門の二男で亀松という者は、登波よりは十五歳ばかり年若(としわか)で、義気が逞しく天晴たのもしい男子で、ちょうど心に願うことがあるのだと、讃岐の金毘羅へ参詣つかまつりたいのだという事で、登波としても渡りに舟を得た心地がして、密かに志を通じ、かねてより復讐の大望の事について、なお打ち明けて相談したところに、亀松は、それは助太刀いたしますと承諾し、父の市右衛門へ内々に別の人からこの趣旨のことを聞いて貰ったところ、市右衛門が言うには、素生(すじょう)も知れぬ女を連れ立って出ていくことには不納得ではあるが、たとえ親兄弟の勘当を受けても助太刀する、大望を遂げさせるとの心底であるならば、大志願が成就した上には、一人で帰国し、詫言(わびごと)を申すべきだとの事だったようで、その役割を果たすことができるのだと、亀松は両親の許しを受けたも同様と喜び、登波と連れ立って密かに宿所を出発した。

それから、日光山・中禅寺・善光寺等へ参詣し、飛騨・加賀・能登・越前の国々を探し求め、京都へ登り、また紀伊より四国へ渡り、讃岐の金毘羅へ参詣し、安芸の広島へ着岸して、初めて敵龍之進の所縁(ゆかり)の地が高田郡(広島県)秋町村にあるとの情報を聞き出し、その辺りへ度々来てみたが、何分有所(ありか)が分らず、同郡吉田に、龍之進の老母がいるとのことを聞き出し、尋ねて行って、「われら夫婦は関東辺りの者で、この辺りに剣術指南の浪人で、名前は忘れてしまいましたが、その老母の親類であって、ときどきこの辺りへも来ると伺っているのですがご存じないか。」と聞いたところ、存じないとのことで、あちこちに事情を聞いてまわった。吉田から半道(はんみち、1里の半分、約2キロ)ほど下ったところで畑を打つ男に、何如にもよく龍之進に似た者がいた。登波はこの男だと思い、亀松と内談して、「もし敵龍之進であったならば、懐剣で切り殺したい心底だけれども、流石の龍之進であるから、もし返り討ちにあったならば、助太刀して討ち取ってください」と言ったので、(亀松は)「容易いことです」と申して、(その男に)近づき、「少々お尋ねしたい事があるのですが」と言うと、(男が)頭の手拭いをぬいで「何事ですか」と言うのを能々(よくよく)見れば、全く龍之進ではなかったので、「私共は関東の者でございまして、物詣(ものもうで)にこの辺りを通り掛かったところで、この辺りのご出身で剣術指南をされているお方の門人に数年前になり、ご厚恩に預かった者として、お目に掛かり御一礼を申し上げたいのです」と答えた。「時間が経ってお名前は忘れてしまいましたが、何かお心当りはありませんか」と尋ねれば、彼は心当りの人相を話してくれたけれど、年齢が四十歲位と言うので合わず、「私共が探しているお方は五十位のご年齢と聞いていまして、私共は文字の読み書きができず、噂に聞くところによりますと、その方は学問が達者ではあるけれども、師匠に弟子入りして達者となった者には見えないと伝え聞いております」と言えば、「それならば龍之進という者ではないだろうか」と言うので、これこそ敵龍之進の事であると飛び立つほどに思ったけれども、「私共は彼の人相とお名前を聞いてはいましたが覚えてはおりません」と言えば、「おふたりは龍之進の仲間の御方ですか」と言うので、「いえいえ、龍之進と言う方が如何なる人かは存じ上げませんが、私共は関東辺りの者で小百姓でございます」と言えば、「この辺りは××村という所で龍之進も仲間です、お百姓であるならばこの辺りにお泊りすることはできませんので、ここから二里ほど下っていけば、そこに龍之進の母と兄がいます。その辺りでお尋ねなさったら委敷(くわしく)分かるでしょう」と言うので、「私共は伝言を頼まれただけですので、無理にお会いするほどではございませんので、もし今度お会いになりましたら、私共のことをよろしくお伝え下さい」と頼んで立ち去ったとき、二人の姿を怪しんだのだろうか、そのあと、「龍之進が殺した男に娘がいたそうで、もしやそれではないだろうか」と独り言をつぶやいたそうだ。このことで、これまで石見浪人とのみ思っていた枯木龍之進が、実は安芸御領の××である事が始めて分かった。

登波は益々奮発し、二人で河筋に添って下っていくと小さい村があった、これは三次から一里ばかり上がったところであった。ここも備後三次郡の内で、安芸御領であると聞いた。その土地の百姓屋に一宿し、龍之進について餘所事(よそごと)で問い合わせてみたところ、彼は九州の彦山(ひこざん)に娘がいて、その辺りへ行っており、近年はこの辺りへは帰ってきていなかったが、一昨年比(ごろ)より帰るようになったところへ、またまた当春の頃より旅に出て自宅にいないので、兎角、彦山へ行ったのだろうと話していた。時に、三月三日の事であり、ところの習いで××ども物貰いに来た老女と男がいた。すなわちあれが、龍之進の母と兄であると宿の者が声をかけたけれど、脇へ寄って無理に返答もしなかった。

明朝、宿を出て近所に二宿して、夜な夜な龍之進の家へ行って立ち聞きし、留守に違いないことを確かめ、敵龍之進はきっと彦山にいるに違いないと決めて、嬉しさを口にするばかりではなく、天地神明を礼拝し、亀松も年来の約束通り助太刀するからと、ひとまず(登波の)御国へ立ち帰り、願い出た上で判断するべきだとして、石見に至り、大森・銀山を通り、御城下萩松本へ帰り、濱崎目明(はまさきめあかし)の与八という者に会って、右の積年の志願から、所々、方々での辛い苦労を重ねて遂に賊の在所(ありか)を探し付けたことまでを話し、何分敵を討たせてくださる様に願い出てくれるよう頼んだが、一応在所(ざいしょ、先大津付近のことか)へ帰り、先大津(さきおおつ)目明に取り次いで願い出ると言ったので、すぐさま角山(つのやま)村へと帰着したのは、天保七年(1836)丙申四月の事であった。

よくよく登波が吉田辺りを探索したのには、理由があることであって、初め龍之進の娘千代を登波の家で預かった時、何心なく、あなたの親達は国元では何をなさっているのと尋ねたところ、馬沓(うまぐつ)を作っているのと言ったので、馬沓を作って何するのと問い、吉田へ持って出て売るのと答えたことが耳底に残っていて、敵を探しに出たときから、なんでも吉田という所の近傍が、敵の在所に違いないと、どこの国とも知らずに、心には懸けていたところ、四国で風(ふっ)と安芸に吉田という所があると聞いて、これだと思いついて、行って探し求めた結果、果して見つけ出したのであった。

さて、龍之進の娘が彦山にいるというのは、すなわち千代のことで、十六年前、大變のとき、龍之進が栗野口の無宿(むしゅく)非人である小市に預けておいたので、そのときは地元の人からも小市からもその次第が届け出されていて、究明の上、拾子の取り計らいとなっていた。その頃、彦山の山伏である梅本坊が法用(ほうよう)で彼の地へ来ていて、連れ帰って養女とし、後名を兎伊(とい)と改め、同山の宝蔵坊の妻となっているという。

登波は角山に帰り、家の様子を尋ね聞くと、十二年前、家を出た後も、夫の幸吉は病気がいつまでも全快にはならなかったけれども差し抑えて、その内あとを追って旅立ち、行方が知れなくなっていた。登波は折角十二年の道行のこと、さらには常陸の人、亀松へ助太刀を頼んだことを、夫の幸吉へ一つ一つ話すのを楽しみにしていたのに、思いも寄らないことになって、愁傷のあまり当惑してしまったけれども、このまま引き延ばしていたならば敵龍之進はまたどこへ立ち去るだろうかと心元なく、片時も緩(ゆる)がせにするべきではないとして、亀松に勇(いさ)められ、また伯父の茂兵衛に密談したところ、茂兵衛も幸吉の安否は不明であるから、敵の居所が分かるのならば、片時も止めるべきではないと言うので、願い出ることさえせずに、亀松と同行してすぐさま打ち立ち、瀧部村に至り、甚兵衛その外の墓参りをして、位牌等を写し貰って、彦山へと急いで打ち立ち、下関まで行くと、松五郎(3)名代として茂兵衛が、後から追いかけてきて、是非とも一応立ち帰れと、御代官所からお達しがあったゆえであって、仕方なく二人共に角山へ帰着した。これは萩の目明である与八から内々で政府へと登波・亀松の事を届け出たゆえにであって、政府より御代官所へ指揮があったことと聞く。

こうして、政府では衆議がばらばらで、あるいは賊を捕えて来て、萩扇の芝という所に矢来を結び、明白に復讐させるべきと言えば、あるいは復讐はもはや盛事ではないのだと言って、亀松・登波のことは、五月二十八日に政府にて決議し、御代官所へ通知されたことは左の如くである。

先大津の瀧部村に住む宮番の娘、登波と申す者(ここでは父甚兵衛が関係しているので瀧部という、瀧部は豊浦郡にて先大津宰判に属する)は、親(甚兵衛なり)兄弟(弟勇助なり)を以前(十六年前の文政四年(1821)十月二十九日)同所において、浪人枯木龍之進に殺害され、この地から離れた。登波は親兄弟の敵であるから、何卒龍之進の所在を尋ね出したい一念があり、十六年前から所々へと方々を尋ね、(登波は家を出てからは十二年になるが、ここに十六年と記すのは大変の年から数えた)登波は、龍之進のことを芸州の者と聞き正し、仇討ちを望んでいると帰ってきて願い出た。しかし、瀧部・川尻その外でも親類所縁の者はなく、当座、引き受ける者がいないため、まず当分のことは御代官所に任せるよう仰せ付けられた。亀松のことは、不義密通者に付き、いきさつを申し聞かせて生国へ帰らせる、これまた御代官所から授けさせ申すべきである。また、龍之進のことは、過半は九州に滞在しており、芸州に老母もいることに付き、折々に往来しているようだと登波は申し出た。人殺罪の者に付き、内密に聞き糺した上で、召し捕るよう仰せ付けられた。

右の趣旨のことが、御代官所へ下りたので、六月二十日、大庄屋の久保平右衛門は、亀松・登波の二人を私宅へ呼び出し、詳しく御授けの旨趣を段々と聞かせた所、亀松は数百里の遠路を一方ならぬ艱苦を凌いで、事に寄っては一命をも打ち拾てるつもりで踏み出した任俠の気概をわずかながらも理解されず、かえって不義密通の者などと黜辱(ちゅつじょく)させられるのは、嘸(さぞ)かし無念であった。この知らせを読み聞いて、ほろほろと落涙しながらも、即座に承諾の意思を述べ、登波は格別に規則違反の申し分はなかったけれども、有無の返答はしなかったので、二人とも今一夜は熟慮しなさいといって河原へ留め置き、明朝にまた呼び寄せ、再度落着筋(らくちゃくすじ)を尋ねれば、両人とも全く納得せず、亀松へ路用金として二両を渡したならば、亀松から一札を差し出したことは左の如くであった。

   申上候事

私は常州筑波郡の若柴村の百姓でございます、御当国出身の登波という女性は、去る卯春(うはる)(1831年春)、風(ふっ)常州(常陸国)あたりを通りかかり、病気が差し発(おこ)り、滞在しているうちに、大望がある身柄だが、女の一人旅で覚束なく、何卒同行して力を貸してくださいと申し上げるので、やむを得ず召し連れて順々と下り、先日、御当地まで参りました。登波のことは御当地の者なので放っておかれるだろうと思いますが、私の身柄のことは他国の者ですので御国法もあり、長期間の滞在を仰せ付けられることは難しい旨、段々と複雑な事情を仰せ聞かされ、承知いたしました。その上で、登波へもその事情を聞かせて納得してもらったことですので、私は早速故郷へと立ち、帰国いたします。

前段の通り仰せ聞かされた事情、さきに事情聴取を受け、申し上げた所は、これまで女を召し連れてのことに付き、帰国用の貯え等もないはずだとの事で、金子二両を頂戴いたしまして、甚だ恐れ入るありがたき仕合せに存じ奉ります。なおまた、登波の考え筋については、内々様子をお聞きしていることもございますけれども、至極隠密な事でございますれば道中で申し上げるに及ばず、帰国したのちにても他言はいたしません。いずれにせよ念のため、一札を作って差し上げておきます。以上。

  申(1836)六月

こうして、亀松は六月ごろ帰国の途に立ち、登波は当分のあいだ松五郎宅へ留め置き、物事について懇ろに気を付けてやり、それから組合の世話になり、その後、角山村に宅を構えたという。

九州彦山へは萩目明の与八・先大津目明の松五郎の二人を、直横目(ぢきよこめ)茂助へ加えて、陰密に探索をしていたところに、娘の兎伊、彼の山内の宝蔵坊へ嫁いでから、由縁(ゆかり)が出来て、龍之進は佐竹織部と改名し、折々登山もするという情報がいよいよ間違いない故、捕らえることになり、松五郎は豊前国へと海を渡り、香春(かわら)宿目明の利吉・久市、添田(そえだ)宿目明の利吉、彦山目明の好助の四人へ頼み、下関目明の弥五郎からも、来てくれるようにと書状で頼んでおいた。(彦山及び香春・添田は並んで田河郡にある)

登波は亀松を追い返され、蟹が手を失ったような心地になって、頗る途方を失ったけれども、第一には御上より御手を入れて下さること、次には松五郎へもできるだけのことを頼んで疎(おろそか)ないこと故、敵討ちの事は暫(しば)しは考えないでいたけれども、何如にも胸中に忘れ難く、いつも松五郎へ、何如に何如に、とせり詰めれば、松五郎はただ時を待て、時を待てとだけ言うので、益々悲しんで憤れば、松五郎も程よくなだめて、時を待っているうちに、白駒(はっく)の隙(げき)の留まらず(あっという間に過ぎ去る月日は留まらず)、四、五年も打ち過ぎて、天保十二(1841)辛丑三月十日、敵枯木龍之進、当時佐竹織部を、彦山の麓(ふもと)において捕らえたとの情報が、彦山の好助・添田の利吉から、下関の弥五郎に伝えられた。そこから先大津(さきおおつ)の松五郎へと通達があった。松五郎は出萩して、その趣旨を報告した。好助・利吉から弥五郎への書は左の通り。 

飛脚にてお目にかかります。暖和の砌(みぎり)でございます所、いよいよ御堅固でありますよう珍重に思っております。去る冬、竹部目明より依頼が(竹部は瀧部の普通の表記で、実際は小田目明松五郎のことを誤ったのだろう、松五郎から依頼したのは天保七年(1836)の事で、したがって去冬といっているのは、その後、追々催促して、特に去冬(18401841)になって改めて依頼を出した事だろうと考えられる。)萩御領内の科人(とがにん)佐竹織部という者は、彦山へ昨日九日に一泊し、今朝がた夜込のうちに立つとの情報をうけて、早速、手附の者どもを召し連れ、同山麓村にて今八ツ時(午前3)召し捕った。このことを飛脚でお伝えして御意を伺いたく。もっとも同人の荷物は筑前小石原より宿継(やどつぎ、宿場間を経由)でもって添田宿に継込(つぎこみ)になり、早速、同宿の御役人衆中へお届け申し出ておきました。この旨を貴所様より先方へ(下関から萩へ)早々に御通達下さい。佐竹織部の身柄はわたくしどもが預っております。大切なる身柄に付き、この状が届き次第、貴所様に当宿へ御出張して頂きたく。右で申し上げたことを進めて頂きたいと飛脚にてお伝えしました。以上。

  三月十日

彦山目明 好助

添田目明 利吉

 萩屋弥五郎様

萩では、十四日夜に松五郎が到着し、何角(なにかど)の用意が調い、十五日夜に直横目茂助・検断二人・目明手先一人並びに松五郎同伴で出立し、十七日朝に下関に着き、弥五郎に面会し、十八日に香春宿目明の虎屋利吉方へ着いた。翌十九日朝、一達(一同の意味?)添田宿に至った。彦山目明の好助が出迎え、旅宿新屋專作へ落ちつき、好助と対談したところ、好助が言った。織部の事は、去年も六月、九月の二度、彦山へ来て、源正坊に滞在し、かつ政所坊へ借銀の口入(くちいれ、斡旋、※「神官」が「領主」に対して土地の寄進を働きかけ、その報酬として「口入」を得る。また、「幕府」が御家人を「荘園」の職に推挙する行為を「口入」という。つまり宗教(政治)権力と世俗権力を取り結ぶもの)を渡す途中でもあった様子で、是非とも政所坊へは便りがあるとの事に付き、前もってここへ織部が登山したら知らせてくれるよう頼み置き、待って居たけれども、彦山の松会の時にも来ないので、小松にはきっと来るであろうと、添田宿の利吉とも兼て示し合わせていた所、折柄利吉が他国へ行く用事があり、倅の幾平と登山し俱々(ともども)待っていた所、当月九日に政所坊へ来るという旨の内通があり、翌十日また出立したことを知らせて来て、とにかく、織部の娘千代、当時は兎伊という名で、宝蔵坊の妻であり、七歳になる娘もいる、その兎伊を私共はかねて心掛けていたところ様子が変わって、急に出立したので、右の理由で俄かに方々へ手配し、彦山領一の宮谷にて私の手先の新平も道連(みちづれ)になって、小細工はせずに棒で足を横なぐり、頭をも擲()ぎ臥せ、残る者どもは(織部)腰物(こしのもの、刀)大小を抜き取り、十かぞえるうちに、私が駈付けて、「二十年あまり前、枯木龍之進と名乗り、萩御領内にて宮番の者たち四人を討ち殺したのは確かか」と尋ねた所、「そのことは間違いない、もっとも三人は即死し、一人は全快したと聞いている」と答え、「そして芸州の××であると聞いているが確かか」と問いかけた所、「全くそのような者ではなく、石州(石見国)那賀郡都治村の出身で、素性は本当だ、間違いない」と申したので、それ以上問いただすには及ばず、人を殺したことは相違なく、かねて萩御領大津郡小田の松五郎から捕えるよう依頼が出されているので、引き渡すことにすると申し渡して、手堅く縛って私宅へ連れ帰った。それから、同山の正賢坊の事は、去々年の冬比(ごろ)であっただろうか、筑後辺りから渚というものを下人として雇って連れ帰り、年齢二十四、五歳くらいにも見えて、その後、増光坊の弟子になっていたことから、織部の子に当たるのではないかと前もって差込もあり、案ずるがごとく、織部が捕えられた時、すぐに逃げて姿を隠し、現在行方が知れない。その由を(龍之進に)尋ねてみた所、全く倅ではなく、少しの由縁もないと申すので、右の渚を態(わざ)と見遁(のが)しにしていると聞かせた所、お心入れ有難いと挨拶を申していた。なお、織部が申す事には、京都中山大納言殿内森石見へ、佐竹渚からの書状が一通あり、金子四両在中とある分については、御慈悲をもって取り扱い下さるよう、また筑後国福光の大莊屋内田市太郎というものは、石見国神主村の大宝坊への借銀手配について、白砂糖六十斤・菓子料金千疋・證文ならびに書通等を、小倉にて久留米の御用達(ごようたし)大里屋善右衛門へ頼み、市太郎へ送り返してくれるよう、また白木綿そのほかは娘の兎伊へ渡したい、彼女もいづれ山内には居られないだろうと考えられるから、以前尋ねて行った母方を便りに向かえば、銀も預ってあるから、その由を申し含め下されますよう、もっとも木綿三反の内、一反は私へ渡してほしいと申したが断った。かつ長門国へ引き渡されては、とても助かる命ではないから、何とぞ所持の観音経をお渡し下さいと頼まれそれを請合(うけあ)い、経を一冊渡し、そのほかの事は萩方と申し合わせるべきだと申し聞かせておいた。翌十一日、当添田宿目明利吉方まで送り出し、当宿においては織部の荷物は筑前国小石原宿から人馬帳を添えて継込んだ所、京都中山殿御内森石見から、要用によって肥前長崎まで来させよとのことであったが、さきほどの付出(つけだし、勘定書)筑後国久留米からであり、いずれにせよ不審に見えたので、継立(つぎたて、宿場ごとの人馬の交代)はどうなっているかと小倉表へ伺い出ることになり、かつ私からも右の荷物を留め置くようにと御役人衆中へ届け出しておき、そこで右の織部のことは当宿に滞在させておき、手錠を締め猿繋ぎにして多人数の番人等を付けていたところ、十四日夜、八ツ時(午前二時)(ごろ)、番人の者が計らずも眠気を催し、物音がしたのに驚き、織部が脱走したのを発見して仰天し、皆で追いかけたが見失い、ようやく升田村にて馳け付け、同村の密ヶ獄に遁れ込んだ。同山の裏手にある上中元寺村へ頼み、前後より穿撃(せんげき)したところ、十五日朝、中元寺村馬場と申す所まで行き遁れ、織部も遁場(にげば)は無いと思い詰め、道中で自害するように見え、早速馳け付けて差し押さえたが、もはや包丁で腹を六寸(18cm)ばかり切り破り、左の手で腸を掴み出したところであったが、いまだ事切れたようには見えず、さっそく浜崎村の医師の中嶋玄通・庄村の外療医の宮城萬斎、同人の弟子二人、以上四人で救護を行ったところ、快気の程は未定といえども、ひとまず療治するだろうと申され腸を押し込め縫合した所、声を発し、十六日朝になって喰餌(しょくじ)も給べ、快方にも見えたが、夕方ごろに至って容体が重くなり、またまた医師を招いて種々の薬用を施したけれども、同夜五ツ時(午後八時)(ごろ)落命におよんだ。右の刃物については利吉の家の棚にあり、菜切庖丁にて、とにかく首輪を切り抜いたように見え、手錠は畑べりに落ち捨ててあった。観音経はどこに落したのか見つからず、(村人に)探してくれるよう、その後も度々頼んだけれども今も見つかっていない、折角逮捕を頼まれたところを、緩(ゆる)がせにしてしまい申し訳なく陳謝いたす。添田町庄屋又三郎も来て、都合同様の申し分であった。織部の事は、住所は石見那賀郡・筑後久留米両所に搆えており、金銀貸借の口入、または売卜、剣術指南をも致し、いつも御国中の熊毛(くまげ)・都濃(つの)・小郡(おごおり)辺りを通り、あるいは滞在したこともあるようで、実に悪(にく)むべきこと甚だしい者だ。死亡した時点で五十四歲であった。織部の娘、兎伊は、二十年前、中門坊に連れ帰られたけれども、彼の坊はもともと子息がいて、とくに素性も確かではない者を連れ帰ったのは、織部から銀を貰って頼まれたことではないかとの風聞もある。その後、五、六年して、宝蔵坊へ遣(つか)わすこととなった。(織部の娘を連れ帰ったのは梅本坊であると登波は言っていた。中門坊うんぬんは直横目茂助の聞いた所だ。二説は是非が決め難い。疑うらく(おそらく)は梅本坊が連れ帰って中門坊へ託したということではないか。)中門坊は先達て病死し、この時は二代目(宝蔵坊)に当る。兎伊は当年二十八歲になり、娘もいるが、父の織部が召し捕られたことを聞き、娘を差し殺して自害したとも、または逃れ去ったとも言われる。これは、かの地、その時の伝説なのであった。

さて、又三郎は付立(つけたて、帳面)を出した。すなわち左の如し。織部の所持の品々である。

   所持の品覚

一、蓙(ござ)包二つ 但し符儘(ふうのまま)

一、風呂敷包三つ 但し符儘

一、蓙二枚

一、中山殿御内森石見人馬帳一冊

一、京都中山大納言様御内森石見様行き書状一通 但し金子四両在中

一、符箱一つ

一、證文一本 但し内田市太郎

一、菓子料一包 但し金子入

一、石州大宝坊様行き書状一通

一、小財布一ツ 但し金子人

一、大小一腰 但し脇差鞘損じあり

一、筮竹(ぜいちく)袋入

右の通りでございます。以上。

  三月             添田町庄屋 又三郎

右の通り付立といっしょに荷物を旅宿に持っていき、又三郎・好助一同で立会いの上、荷物の符(ふう)を放って取り調べた所、左の如し。

   付立

一、本大小十四冊

一、経一巻

一、人馬帳一冊

一、往来手形一通箱入

一、文箱一つ

一、筮竹二通り袋入

一、棧木(さんぎ)一包

一、白木綿三反

一、袴一具

一、財布一つ

一、金子取合わせ三歩二朱 但し御初穂一封とある分とも

一、京都中山大納言殿内森石見へ佐竹渚からの書一通 但し金子四両在中とあるが不審であるため、披符(ひふう、開封)したところ鐵(くろがね)金具の様な物が三つあり

一、證文一本 但し筑後国久留米領三潴郡福光大庄屋内田市太郎より石州那賀郡神主村大宝坊あての借用銀證文なり

一、菓子料一封 但し金千疋同人より大宝坊へ宛てる

一、書状一通 但し同人より大宝坊へ宛てる

一、白砂糖六十斤

一、大小一腰

一、風呂敷大小八つ

一、目鑑一つ 家入

一、茶六袋

一、書六枚

一、鐵粉其の外一袋

一、古具足一風呂敷

一、懐中上袋一つ

一、書通其の外反古類一括り

以上

     写

  天保十一(1840)庚子三月十五日立

上銘 人馬駄賃帳

佐竹織部

右の者はこの度必要によって、肥前長崎まで来ることになっているので、その間、各宿場で川渡や人馬が止宿等で滞りない様、取り計らい頂きたい。

  子三月              中山殿御内 森石見

京都より肥前長崎迄 宿々問屋役人中

   往来手形の事

一、石州御代官岩田鍬三郎支配下

佐竹織部

右の者は、拙寺の檀那であることに紛れもありません。今般、四国遍路ならびに肥前国清政公(肥後国清政公をこのように誤っていることを笑うべし)参詣のため発足したところですので、国々の御関所で海陸とも滞りなく御通し下さい。もし、日が暮れ難渋している場合は止宿をお頼み申し上げます。万一、何国においても病気あるいは病死したとしても、こちらへ御届には及び申しません。その所の御作法で御葬り下さい。

念のため依って一札件の如し。

紀州高野山正智院末石州銀山御料那賀郡都治本郷

  天保十一年(1841)二月     真言宗圓光寺

国々所々 御関所ならびに村々御役衆中

以上

   覚

一、白砂糖六拾斤一箱

一、菓子料金子千疋一包

一、證文一通

一、書状一通

右の織部所持の品の内、白木綿三反は娘兎伊へ残してくれる様、かつ筑後国福光大庄屋内田市太郎と申す者が石見国神主村大宝坊へ宛てた借用銀手遣いに付いては、品々を御当国小倉にて大里屋善右衛門へ頼み、市太郎へ送り返してくれる様、(織部)存命の内に好助殿へ申し残しておいたけれども、織部所持の木綿は今では兎伊へ残すことは難しく、右の一つの書のそれぞれについて市太郎へ送り返すことについては、書通も申し残してあり、いずれにせよ証拠もあると考えられるので、お引渡しの間、お受取下さるべく候。以上。

  天保十二(1842)丑三月二十日

下関 弥五郎

小田 松五郎

 彦山 好助殿

 添田 利吉殿

右の通り調えて、現場を引き調べて好助へ引き渡した。好助・利吉から請取りを出した。二十日、茂助そのほか一同は、中元寺村に至り、庄屋彦左衛門および又三郎・好助・幾平の一同が立会い、遺体検分の蠣灰(かきばい)を箱詰にして添田宿まで送り出した。疵所(きずしょ)等はさきほどの又三郎・好助の言ったことに違いなし。衣類は三階菱紋付(もんつき)形付單(ひとえ)物一枚、地半(ぢはん)一枚、帯一筋のみであった。二十一日の朝に至り、織部××であることはもっぱら噂になり、かの地の役方(やくかた)の者は人夫を差出し苦しとの事に付き、弥五郎・松五郎より好助・利吉へ左の一札を出して事が済んだ。

その文に云はく、

佐竹織部のことは××であるという風聞もあるが、全くその筋にはなく、石州那賀郡都治村百姓に相違ない。よって一札を差し出しておく所件である。

  天保十二(1842)丑三月二十一日

右にて事が済み、同朝、添田を出立し、深更(夜更け)に及び、赤馬関に着船し、二十四日、萩に帰着した。さて、枯木龍之進あらため佐竹織部は、備後三次(みよし)の××であることは、登波が親しくその地に行き見聞きした所は正実なり。但し豊前にて、一時の權辭(けんじ、謙遜)により石見浪人と諸文書に見られるけれども、その実際は定かではない。

こうして、龍之進の死骸は籠屋に假埋(かまい)仰せ付けられ、御法の通り、十二月六日斬首、瀧部村に梟首(きょうしゅ、ふくろうくび)仰せ付けられた。登波はこれを知り、喜び、怒り、瀧部村へ走り行き、死首に向かって、お前は先年、父弟を切害し、夫の幸吉に深手(ふかで)を負わせ、剩(あまつさ)え幸吉の妹松をも切り殺し、立ち去り、浪人枯木龍之進、十数年の讐を報いようと、五畿七道(大和・山城・和泉・河内・摂津、東海道東山道北陸道山陽道山陰道南海道西海道)に身を窶(やつ)して尋ね求めたが回(めぐ)り逢わず、空しく月日を送った、この度、上様が御慈悲のあまりこのように仰せ付けられ、思い当たりと白眼付(にらめつ)け、短刀を提(ひっさ)げて立ち向かった。

この時の御代官役張(ちょう)三左衛門至増、その段政府へ届け出て、かつ登波に対し一生の一人扶持を立てて下さるとの事であった。

初め、直横目以下が豊前へ向かう時、登波は頻りに同行したいと願ったけれども、御作法があり、そのことは叶わずとの事で踏み止ったが、敵龍之進は彼の地にて自殺し、梟首にされ、瓢箪が腐ったような者でしかなかった、その無念さは言葉が見つからない。この様になると預(あらかじ)め知っていたら、願なく私は向かって行ったものをと、今になって遺憾であると、登波は自ら言った。登波は、常陸国若柴宿の亀松に大恩があるので、敵の梟首を告げ知らせようと、明年(1843)四月、密かに養子の鶴蔵という者、九歳になるその子を連れて若柴へ参ったが、惜しいかな、親の市右衛門も亀松も先年亡くなっており、家内の者へ挨拶を述べ、十日間ほど滞留し、帰りに日光山・善光寺等へ参詣し、その年の十月に角山(つのやま)へ帰着した。

その後、十六年目、安政三年(1856)丙辰、孝子義人の詮議が仰せ付けられ、十月、御代官の勝間田(かつまだ)權右衛門盛稔(もりとし)によって、旌表(しょうひょう)ならびに褒美の授与が取り行われたことは左の如し。

幸吉後家  登波

右、文政四年(1821)辛巳十月二十九日、枯木龍之進という者が、登波の実家である甚兵衛宅へ一泊し、父の甚兵衛、弟の勇助、夫幸吉の妹の三人を切り殺し、幸吉に数ヶ所の疵を負わせ立ち去り、種々行方を探索するようお触れが出されたが見つからず、夫の幸吉も数ヶ所の疵によって大いに衰弱し、癲癇に変わり、色々と看病していたところ、急に全快となるのも心元なく、父弟の仇を共に天を戴かざる(敵とは殺すか殺されるかの関係で、一緒にこの世に生きていられないほど)の遺恨は止む時がなく、ここで先延ばしにしてしまえば敵の行方も失い、ついには志を果せぬ結果になってしまうと、かれこれ気をもみ、夫の幸吉に相談して納得の上、心を励まし、身をやつし、郷里を立ち、山陰北陸の国より江戸に出て、奥羽および五畿内四国までも穿鑿(せんさく、調査)し、十二年のあいだ野に臥し山に臥しの艱難心苦を尽したけれども、居所はつかめず御国へ帰りかけたところ、芸州でほぼ龍之進の居所を聞き出すことができ、萩へ帰り敵を御討たせ下されと申し出たところ、彼れ等式にても御国民一統を洩れずと御座候て、天保十二年(1841)辛丑三月、捕縛人を九州の彦山へ差し向けたところ、龍之進は密かに様子を知り自殺に及び、死骸を斬罪、首は瀧部村に掛けられ御国法に処せられ、生きているうちに復響はできなかったといえども、ひとえにこの者(登波)の孝心は仁政の恩恵という形にあらわれ、かつ天地神明の冥助により宿志を果したところ、深く賞するに余りあることだ。今般、孝子義人の評議が仰せ付けられ、幸にして登波は存命であり比類なき者であるので、門戸にて表彰する。

  安政(1856)年丙辰十月

   覚

幸吉後家  登波

一、米一俵

右、先年、父の甚兵衛、弟の勇助を殺害され、横死させられた後、憤を発して復讐の事を神仏に誓い、数年覊旅(きりょ、旅、旅人)に身をやつし、ついに御威光をもって宿志を果し、寔(まこと)に抜群の孝義は感心の事である。この度、右等の評議があり、門戸での表彰に合わせ、同時に、褒美としてこれを授ける。

  辰(1856)十月

この年、登波は五十八歳で存命であり、勝間田氏の勘場(かんば、萩藩の宰判という行政区画に置かれた役所)へ呼び出され、年来の憂患辛苦を親しく問われ(取り上げられ)、前段の二事(表彰と褒美)を申し渡されれば、登波はもちろん、同席していた者一同は感泣の袂(たもと)を絞った。

この時、勝間田氏が登波を詠んだ歌がある。

向津久(むかつく)の紫菜(のり)()く袖は乾(かわ)く間()も 乾かぬ袖を獨りにぞ見る。

(向津久の奥の入江のさざ浪に、海苔かく海士の袖は濡れつつ、とよめる人丸の歌の翻案である。香月牛山が著した巻換食鏡に長門向津玄とあるのはこの場所のことをいう。)

楢崎景海(ならさきけいかい)はこの事を聞いて、「只獨り乾かぬ袖のそれ故に幾その人か捨ほぬらすらん」と詠んだ。

夫の幸吉は家を出て、後に行方知れずとなった。登波が美濃の国を去ったあとへ、数日して尋ねて行ったのだった。その事は、諸国をめぐり、再びその地に帰ったとき、登波は初めて聞いたけれども、もはや尋ねる方法がなかった。帰国の後、石見の津和野辺りで夫が病死したと告げる者がいたけれども、これまた確かではないことだったので、それのみで打ち過ぎていたが、今年、安政四年(1857)丁巳九月、私の友で画工の松浦松洞(まつうらしょうとう)が角山に行き、烈婦登波に会い、話したところ、これほどの貞烈(精神強き)の婦として夫の死所をそれなりにして置くことは如何なものかと詰(なじ)ったところ、直後に登波も大いに感激し、早速装を束ね、十五日の朝から家を出て、石見に行き所々を探索したが、二十六年前に幸吉という者が津和野で病死したことを聞き、行って尋ねたら、それは紀伊人とのことでしかも医書一巻を所持していたことであるならば、わが夫ではなく、前に津和野で幸吉は病死と伝へたのは、多分この人だろうと思い、他に尋ねるべき手がかりがなく大いに力を失い、所々の宮番へ、もし知る事があれば、申し送りくださいと頼み置き、空しく帰ったのだった。この帰りがけに、わが家に立ち寄ったので、詳(つまびら)かに討賊の始末を聞き、その口説で原稿を改竄(かいざん、松陰による修正)したことは、その通りである。幸吉の死所が知れないのは、幾重も遺憾だけれども、松洞の一言の下に感激して直ちに石見に走るのは、則ち感ずべきのみ。

その後、戊午の年(1858)、御両国中町地方(まちぢがた)孝人、奇特人、その外、褒美の評議が行われたとき、登波と小郡台道(おごおりだいどう)の石(いし)、都濃郡深浦(つのぐんふかうら)の正(まさ)、三人は孝義抜群で、老極の者もいたけれども、もしやこの議半途中に意外の事があってはということで、□月□日、三人のみ引き抜いて褒美があった。時に、登波は向後(これより)宮番の唱(となえ)が差し除かれ、平民一統の戸籍へ加えられるとの事であった。よくよく登波が平民に加えられることは頗る大議であり、初め周布政之助兼翼(すふまさのすけかねすけ)が御代官であった時、政府へ申し出たけれども、政府にて先例がないために、事はしばらく中止となった。すでに、政府より郡方(こおりかた)へ、先例はないかと問い合わせたが、郡方本締(もとじめ)佐藤寬作は答えて曰く、「昔、秦人が松を以て五大夫とした。これが何で先例に預からないだろうか。天下孝義より重いものはない。登波は賤しいといっても、どうして松の比較にならいであろうか。松の功は、登波の孝義と同じではないだろうか。そして、宮番がこのような復讐を果たしたことも又先例はない。非常の事であればこそ、非常の賞は素(もと)より当てられることだ」と。政府は一咲(しょう、笑)して終わった。ひとり唐船方(とうせんかた)の中村道太郎清旭曰く、「孝義は固より重い。しかしながら、本邦はなるほど名分を重んじて種族を分けている。この議を軽易にしていられようか。この議を慎重するのは、即ち孝義を重んじるゆえである」と。ここに於いて、儒者近藤晋一郎芳樹(よしき)に命じて、これを議論させた。芳樹は古史を引いて例とし、この議を疑ってはいけない理由を建白した。政府はすぐにその議を探り、かつ登波が素性(すじょう)播磨の百姓で、幸吉も元来奥阿武郡の百姓であり、一旦宮番となったとはいっても、賤を放って良に還すという訳であれば疑いなしと決した。鳴呼、これ登波の栄だけではなく、実に政府の美事と称すべきだ。

   附書

石の事跡は、諸家の詩文歌詠の寄贈も少なくなかった。就中(なかんずく、その中でも)先輩楊井(やない)謙蔵が贈った長篇の詩は、五山堂詩話(さんどうしわ)(4)にも記載があった。また勝間田盛稔(もりとし)が小郡(おごおり)代官であった時、撰ばれた蓬生(よもぎ)の麻(あさ)とて(良い環境でまっすぐ伸びること)、石の事跡を記したものがあった。また柴田鳩翁(しばたきゅうおう)の道話続々篇には、とても詳しくこの事が説かれていたので、世の人は皆知る所となった。ひとり正の孝は、石よりは優れるように思われるが、世の人は未だこれを伝えていないので、爰(ここ)に戊午の歳、褒称の詞を直ちに附書(つけがき)し、人々にその大概を知らせる。松洞画史はふたたび会いに深浦(ふかうら)に往き、正の像を肖()せ帰り、家に所蔵した。おそらく不朽を謀ったのだろう。褒称の詞に言う、

 都濃郡宰判末武下村(すゑたけしもむら)庄屋堀吉郎右衛門存内深浦畔頭清木八郎右衛門組百姓

宇吉祖母  末左

右の者、当年九十六歳になっており、両親が存生中には孝養を尽くし、父の助八は八十四歳で亡くなり、母は数年、眼病を煩い、終に盲人になり、九十歳ばかりで死去した。かねて貧窮者であり田畑等もなく、預り作などしていた。あるいは落葉を拾ったり、牛馬飼草を売代(うりしろ)としたり、女身でも艱難辛苦を厭わず、いろいろと働き、日夜孝養にのみ心力を尽したので、近辺の者も見兼ねて少々宛ての助勢をしたが、落葉刈草でもってその礼意に報じ、以前、養子はいたが貧窮を見限って家出し、その後も養子を勧められたけれども、夫がいては却って両親への心添が疎かになるので、両親が死去した後は尼になっても後世を弔い申すべしだと、終に縁辺せず、孝心の外、更に他念なく稀なる孝行の者に付き、追々御褒美を遣わされ、公辺の御付出(つけだし)にも加わり、宅前へ孝女満佐と記録し、石建調が相成り、一生独身でおり、只今の宇吉は姪の子でこれまた祖母へ懇ろに仕え、家内は睦まじく暮し、満佐は多年の辛労孝女の名誉を得た。奇特の行状(日々の行い)と稀なる高寿、旁々(かたかた、いずれにしても)委細を靱負殿(5)に聞き届けられ、甚だ神妙の事であるから、間近く身柄(みがら)一生眞綿をも立下されども、なお又厚き御詮議でもって御褒美のため永く名字が差し免(ゆる)された。

   盗賊始末取徵文書

幸吉口書(供述書)一通

登波口書一通

田中文後日書一通

登波申上一通

(1840)十月登波申分一通

目明松五郎申上一通

大庄屋久保平右衛門書一通

大抵記一巻 静間衡介記

登波申分書取覚 同人

烈婦登波碑文附紙 同人

愚問答書 同人

直橫目茂助取捌一件一巻 茂助記

 その他、地名を知るのが難しい者は、国郡全図・赤水与地図(せきすいよちづ)(6)長門絵図・同附録・諸国道中袖鏡・永代節用無尽蔵等に據()って是れを決した。

 

   列婦登波の碑

烈婦、名を登波、長門の国大津郡角山村(おおつぐんつのやまむら)の宮番幸吉の妻なり。父を甚兵衛といい、弟を勇助といった。また幸吉と職を同じくし、豊浦(とよら)()の瀧部(たきべ)に居た。宮番の職は神祠を掃除し、以前から盗賊を緝捕(しゅうほ、逮捕)するが、良民に加えられる所とはならなかった。そうして三人は任侠を自負し、剣客博徒は往々にして彼らを避けていた。幸吉に妹松(まつ)がおり、枯木龍之進の妻となった。龍は備後の××であり、自らは石見の浪人と称し、妻を携えて諸国を往来し、撃剣を人に教えていた。文政辛巳(1821)十月二十九日の夜、枯木夫妻は幸吉と同じく甚兵衛の家で会した。龍に先妻の一女がおり、甫(はじ)めて八歲、時にこれを乞兒(ほかいひと、こつじ、乞食)の小市の所に匿(かく)した。龍はすぐに妻を幸吉に託してひとり上国に遊ぼうとし、実はここを去ろうとしていた。その妻と幸吉はこれを知り、切にその非を責めた。龍は心持ちを殊に悪くし、それが為にその場に居合わせたものは彼を慰め解いていた。そうして龍は遂に松と婚を絶ちまさに去ろうとした。時に、夜暗く雨は激しかった、甚兵は彼を留め宿した。丑夜(午前二時)、龍が起きてことごとく甚兵・勇助・幸吉および去妻を刃()りて去った。三人は即死し、ひとり幸吉のみ殊()えなかった。烈婦は、變を聞き、急きょ趣き(事情)を掬おうとしたが及ばなかった。首(はじ)め、復讐を請うた。このため藩は龍を追捕したが獲らえることはなかった。しばらくして、幸吉の創(きず)は稍(やや)()えたが、転じて他の症となり、蓐(じょく、草で作った敷物)に在ること五年、烈婦の看護は具(つぶ)さに到っていた。けれども烈婦の心は常に大讐の未だに果たせていないことを悼み、また夫の病は輙(たやす)く起きてはならないものだと思い、間に乗じ夫に志を語った。幸吉は大いに悦んで言った、「かの賊は既にあなたの父弟の敵であり、また我が妹の敵だ。私はあなたと長らく偕老を契った(夫婦が年取るまで仲良く暮らした)、あなたの父弟はなお我が父弟のごときである。今、私は不幸にして病を発してしまって、假令(たとい)あなたを助けて復讐を果たすことができないといえども、どうしてあなたの志を礙(さまた)げることに耐えられるだろうか。あなたは速かに出て賊を探せ。私も病が少しく平常になればすぐに追ってあなたを助けにゆくのみ」と。烈婦は、且つ泣き且つ拝し、行装して家を出た。時に乙酉(1825)三月なり。時に年二十七。

烈婦は既に家を出て、山陰より東に上り、近江・美濃を過ぎ、伊勢より紀伊を回(めぐ)り、京畿諸国、遺(あま)すことなく捜索した。ここにおいて、賊はもう近くにはいないと考え、中山(7)より東へ下り直ちに南部の恐山を極め、奥羽を探り関東を捜し、北陸を経()て、東海を歴(めぐ)り、転じて南を周(まわ)り、反転して安芸を過ぎ、旅へ出ることおよそ十二年、辛苦を具(つぶ)さに嘗め、しかる後に賊の居所を詗察する(けいさつ、探し当てる)ことができた。龍の娘で乞食の所に隠した者は、彦山の山伏が收養する所となり、既に成長して人に嫁し、龍の母は備後の三次(みよし)に居た。それ故に龍は時(とき)に或はその間を往来した。烈婦は既に具(つぶ)さに成果を得て、大いに悦んで国に帰り、事の次第を官に申し上げ、復(ふたた)び復讐を請い願った。しかし許されなかった。烈婦が家を出てから一年後、幸吉が病を無理して旅に出て賊を探したが、その終る所を知るものはいなかった。烈婦は痛哭(つうこく、大いに嘆き悲しむ)して志を秉()(つかむ)こと益々(ますます)(かた)く、急ぎ彦山に如()きて賊を撃たんと欲した。烈婦が東海を歷ったとき、ひとり常陸に留ること三年、助けを求めて亀松を得た。亀松は筑波郡若柴駅の民で、固より壮健で義を好み、烈婦の志を憐れみ、復讐を助けることに賛同した。ここに至り首(しゅ)としてその謀に賛成し、因って与(とも)に下関に至ったが、代官所の追止する所となった。藩はすぐに追捕を彦山に派遣し、賊の状況を探問させた。天保辛丑(8)(1841)三月、賊は捕えられて自殺した。因って、瀧部村に梟首した。烈婦は走り首の下につき、ヒ首(ひしゅ)をこれに擬し、睨み且つ罵って言った、「お前がどうして私を覚えていようか、私は甚兵衛の女(むすめ)、勇助の姉、そして幸吉の妻だ。お前は私の父と私の弟を殺し、私の夫を傷つけ、また夫の妹を殺した。私はそのために敵を報いたいと思い、五畿七道を、ほぼ探し尽した。そして一撃をお前の身に食らわせることができないこと、これが私の憾(うら)みだ。けれども天道国恩は遂にお前をこの状態にした。お前はお前自身の罪を知れ。私を覚えているか」と。時に本郡の代官張君至増(ちょうくんしぞう)(9)は、これを義とし、建白して一口米を賜りその身が終らないよう(生活が困窮しないよう)にした。安政丙辰(1856)、藩命は、孝義を旌表した。代官の勝間田君(かつまだくん)盛稔は烈婦を建白して、その門戸に旌表し、特に米一苞を褒賜した。明年、余君(10)に代り来てこの郡を司った。思うに、幸吉は先に身を没したといえども、志は実にその妻と同じであれば、則ち夫妻は永くその宮番の職を免じて、良民に加えられるべきであると。藩議は審重(しんちょう)で、月日(11)に許可が出た。余すぐに因って郡を巡(めぐ)りて烈婦に対面した。烈婦は、時に五十九歳、身体健全にして容貌は未だ衰えていなかった。彼女にその復讐始末を語ってもらい、感慨悲惋(かんがいひわん)、涙を流しながら話した。余既にその志を悲しみ、又その事の久しくして或は泯滅(びんめつ)してしまうことを恐れた。ここに於いて碑を建てて文を勒し(ろくし、書き記し)、その跡を紀(しる)し、その烈を表し、これに重ねて銘を刻んだ。銘に言う。

混々原泉、于海朝宗。洋々大魚、龍門篇龍。懿矣烈婦、習坎惟通。身雖賤兮、門閭表庸。

(こんこんたるげんせん、うみにちょうそうし。ようようたるたいぎょ、りゅうもんにりゅうとなる。いなるかなれっぷ、しゅうかんこれつうず。みいやしといえども、もんりょいさををひょうす)

混々とした源泉が、海へと流れ入り、広い世界に飛び出した大魚は、龍門に入り龍となった。

信念を突き通した烈婦は、大いなる壁を突き破り、低い身分といえども、政府はその功績を表彰した。

 

右の擬稿がほぼ完成した。宮番が良民に加わったのは、藩に故事がない。それゆえ、藩庁の議論は間延びし、建碑の事もまたしばらく停止となった。しかし、烈婦の事跡はここに至ってその粗(あらまし)を得た。後に作る者がいれば、また取る所があろう。丁巳(1857)7月既望(きぼう、16日夜)、識す。

戌午(1858)の冬、登波は特別に良民に加わった。そして公輔(こうすけ)はその時ここを去って他の職となり、建碑の事は遂に議論されなくなったという。重ねて識す。巳未(1859)五月。

 

(1)正しくは高津である

(2)石廊崎にある

(3)先大津の目明

(4)高松藩詩人菊池桐孫、号は五山の著、十三巻

(5)浦鞘負、老臣〔関伝〕

(6)水戸の地理学者長久保赤水の作った地図

(7)中仙道と同じ

(8)十二年

(9)張は姓、至増は名

(10)周布公輔をさす

(11)未だ藩許の前にその許可が出る予想の下に書いたので建碑の時に某月某日とするつもりであったのであろう

吉田松陰全集 第4巻 (岩波書店, 1940) 盗賊始末 [原文]

盗賊始末

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048658 P.411(コマ番号210/241)

   敍

安政丙辰、藩命、孝義()を旌表す。ここに於て、都濃郡(つのぐん)に正(まさ)あり、吉敷郡(よしきぐん)に石あり、皆孝婦なり。而して大津郡に又登波(とわ)あり。登波の事最も烈なり。夫れ正は一身にて老父母を養ふ、贅壻(ぜいせい)一たび去って永(とこしへ)に誓って嫁せず。石(いし)は空閨(くうけい)病める舅姑(きゅうこ)を奉じ、貞節(をつと)を感ぜしめ、夫復た出でず。是れ皆今の世に少(まれ)なる所なり。而して正は年九十四、石は年六十八、生存して今に迄(いた)る。今並びに旌表を蒙る、亦榮ならずや。而して兩婦の貧苦艱難は多く年所(ねんしょ)を經、誠に人の堪へざる所多し、然れども猶ほ平常の事のみ。登波に至っては則ち然らず。強敵颱去(ようきょ)して共の所在を知らず。搜りて獲ざれば死すと雖も返らんことを顧(おも)はず、搜りて獲ては復た其の反擊を懼る。豈に特(ただ)に流離奔走、困厄艱難のみならんや。其の初めや蓋し懦夫の忌む所、俗人の怪しむ所、而して其の志遂げ功成るに及んでは、則ち悅服せざるはなく、一旦にして進んで二孝婦の間に列(つらな)りて光あり。今茲丁巳(ことしていし)、余大津郡代(ぐんだい)()周布公輔の爲めに烈婦登波の碑稿を擬す。登波の志を遂げしは蓋し今を距る僅かに十七年なり。登波年五十九、今猶ほ生存す。而も事實轉訛(てんか)し、文書錯亂して徴すべからざるに至る。郡代の胥徒(しょと)靜間(しづま)衡介なる者、古を好み義を重んず。前代()の時より深く其の湮沒(いんぼつ)を惜しみ、故牘を點檢し、又登波及び父老及び其の事を知れる者に歴問して、大抵記(たいていき)を爲(つく)る。余も又懇ろに知友に求めて當時の文書數通を得、資()りて以て碑稿を擬す。碑稿已(すで)に成りしも、事實の猶ほ挂漏(けいろう)して棄つるに忍びざるものあり。ここに於て又討賊始末を作る。噫、登波の烈は二孝婦に列りて光あり。之れを千秋に傳へて訛(あやま)らず錯(たが)はず、取りて以て徴となすべきものは、其れ或はこれをここに觀るか。安政四年丁巳六月念五、二十一回猛士藤寅書す。

茲に長門國大津郡(おほつぐん)向津具上村川尻浦(むかつくかみむらかはじりうら)、山王社宮番(さんのうしやみやばん)幸吉が妻に、登波と云へる烈婦あり、其の實家の父は甚兵衛とて、豊浦郡瀧部村(とよらぐんたきべむら)八幡宮宮番なり。瀧部も亦大津郡代の宰判(さいばん)とぞ。宮番と云へば、乞食非人などに比べて××より又一段見下げらるる程の者なるに、彼の幸吉夫妻の所為は天晴(あっぱれ)大和魂の凝固(ぎょうこ)せる士大夫(しだいふ)にも愧ぢざる節操なり。いで其の縁由を説かん。

幸吉は原(もと)御國內の困窮百姓にて、母親及び妹連(づれ)に赤馬關(あかまがせき)に零落し、物貰體(ものもらひてい)に成り、終に奥小路(おくせうぢ)水ヶ谷(たに)と云ふ處の宮番に養はれ、後に川尻浦へは來りしたり。登波が幸吉に嫁せしは、十五歳の時にて、下關滞留中の事なり。幸吉其の時二十三歳とぞ。登波が父甚兵衞、原(もと)は播磨荒井の百姓なり。登波七歳の時、母親に連れられ、姉伊勢(いせ)・弟勇助と以上四人連にて、荒井を出でて下關に來り滞留す。父甚兵衞も其の年中に跡より追來るとなり。母は程なく物故(ぶつこ)し、姉は後に俵山(たはらやま)の宮番に嫁す。幸吉の妹名は松と云ふ者も、亦下關にて奉公稼(ほうこうかせぎ)致し居たる內、石見人浪人枯木龍之進(かれきりゅうのしん)と唱へ、賣卜(ばいぼく)又は棒業(ぼうわざ)剣術指南抔(ほう)して諸國を徘徊する者に嫁す。是れは幸吉が登波を娶りしよりは四五年も後の事なり。此の龍之進實は石見浪人にはあらで、安藝領備後三次(みよし)××なることは後にこそ知られたれ。

かくて松は龍之進に從ひ諸國を徘徊し、文政三年庚辰(かのえたつ)十二月、夫婦連にて幸吉方に來り、翌辛巳(しんし)の年正月迄滞留す。初め登波は幸吉に從ひ川尻に住し、松は龍之進に從ひ諸國に流浪す。ここを以て遂に未だ相對せしことなし。其の相對せしは此の時を初めとこそ聞えしなり。

已にして龍之進九州邊へ罷(まか)り越し度しとて、妻松を預け置き出足す。同年四月に先妻腹の女九歳になれる千代と云ふ者を連れ來り、五日許り滞留す。其の節龍之進申し分には、身柄上方邊(みがらかみがたあたり)へ登り度き所存にて、支度を之れあり、暫時女(むすめ)をも預け置き度く、彌々(いよいよ)決着(けっちゃく)せば又々參るべくとて、其の身一人立出づる。

其の後十月二十二日、松は登波身元の弟勇助へ相應の婦(よめ)下關に之れある由にて、瀧部村甚兵衛方へ相談の爲め罷り越したる留守へ、廿八日晝前、因幡浪人と唱ふる田中文後と云ふ者、幸吉方へ來りて、今日枯木龍之進へ相對いたし候處、龍之進內方(うちかた)松、當家に滞留に付、明朝新別名村の内人丸峠(ひとまるたふげ)大願寺迄連れ越してよと、龍之進より頼まれ候と申す故、松儀過日瀧部村へ往きたる由を答ふ。彼是(かれこれ)應答の間に八ツ時過龍之進も來り、今晚大願寺へ一宿相賴み候處、彼の寺故障の由に付き、吾れ等も茲へ参り候。扨て幸吉殿吾れ等は彌々(いよいよ)上方登りに相決し候。此の度は娘をも連越し申し候との事申すに付き、幸吉答ふるは、娘子御連れにては定めて御歸國は未定に付き、妹松は置去(おきざ)りの御心底にて之れあるべく、御身柄凌方難澁(しのぎかたなんじゅ)の時は松并びに娘子迄御預け成され、此の節少々御工面(ごくめん)宜しく候へば、松を置去りにして遠路御旅行の御心底、言語道断の不人情と、幸吉高聲にせり詰めし處、龍之進辭(ことば)をかはし、文後へ向ひ云ふは、途中にても御噺申し候様、上方へ登り候に女房同道にては志願も相調はざるに付き、暇をも出し候へば義理ある妻の儀に付き、銀三百目位は付け遣し申すべく下意と相噺すを、幸吉聞取り、銀子(ぎんす)を付け離縁致すべしなどとは、下賤の私共とても迷惑千萬、御心底恥ヶ敷候、先程の儀ならば縁切暇取らせ申すべく、兎も角も松參り居り候事に付き、瀧部村の方へ御兩人御同道申すべきに付き、今夜は私方へ御泊り成されよとて、翌朝龍之進并びに娘千代・文後・幸吉四人連にて瀧部村へと立出づ。文後・幸吉は五里の路を七ツ時分(とぶん)に甚兵衛方へ往き着き、前段の趣、松并びに甚兵衛へも噺し合ひ、暇を取り離縁申すべきに荒方(あらかた)決着の所へ、龍之進は最前(さいぜん)一同立出で、途中栗野川口(あわのがはぐち)渡場にて、此の邊に少々所用あるゆゑ文後・幸吉には先きへ參られよとて、娘を連れて渡守の固屋へ立寄り、折柄一二夜泊り居たる、肥前國河原村生無宿非人(むしゅくひにん)小市と云ふ者へ娘を預け置き、夜五ツ時比(ごろ)參り、甚兵衛并びに松へも相對にて彼是噺し合ふ內、龍之進甚だ薄情の所、幸吉・松共に迫(せり)詰め應答事六かしけれども、縮(つづま)る處離縁に雙方折合付き、手切の驗(しるし)として銀三百目龍之進より松へ相渡すべきに治定(ぢぢょう)す。然れども、三百目の內百七十目は先達(せんだつ)て下關にて松へ相渡し置きたり。三十目丈今夜現(げん)に相渡し、殘り百目は文後仲人にて、來る正月を限り幸吉へ送り申すべしなど龍之進は云へども、幸吉・松共は最前より金銀に拘る譯は毛頭之れなく、却って心恥づかしき儀などと罵りたる程の事なれば、何も彼も龍之進が申す儘にて離別書申し受け、事相済み、龍之進も酒一升買得(ばいとく)し、皆々呑み合ひ熟和に折合ひたり。最早子()過ぎ頃にも相成り、龍之進は娘千代事も近所へ預け置きたるゆゑ、嘸()ぞ待兼ね居るべくに付き、是れより直樣出立致すべしとて支度致し掛けたれども、闇夜の上雨頻りに降り、雨具の用意も之れなき由に付き、甚兵衛、今夜は御泊り候へと挨拶述べければ、暫時休息申すべくと、奥の三疊へ文後一同に入り臥せ付きたり。

此の夜甚兵衛方には勇助、滞留の松三人の外、五ツ時頃より美禰郡嘉萬(みねぐんかま)村百姓利右衛門と申す者止宿し居たり。尤も是れは爐()の脇に臥せ居り、龍之進・文後へは一向出會ひ申さざりし。かくて丑の刻過ぎに龍之進申すには、最早出足致すべく候間、茶わかしてよと申すに付き、甚兵衛・勇助起出で茶などわかし、飯喰はせし時、文後も同じく起出で暇乞ひ申しけれども、雨猶ほ以て降り止み申さず、龍之進は障子を明け度度空を見合はせける內、内輪(うちは)の者も少しまどろみ、文後は最前の三疊へ入り臥せ居り、是れも少々寐()むりたる處に、燈火消えたりとて松を呼起し、付木(つけぎ)を取りてよと云ふ。松は、付木は佛壇の下にありと寝ながら答ふるに付き、甚兵衛、勝手不案內の人分るまじ、爾(なんぢ)起きて火を付けよと云へども、松は、離縁の人へ其の儀に及ばずとて起きず。甚兵衛聞き兼ね、我れ等付けて進ずべしとて起出で、火を付け置き、外へ薪取りに出る。其の跡にて龍之進は松及び幸吉・勇助三人悉く切害(せつがい)す。甚兵衛外より歸り來る處を戶口にて切倒せしなり。甚兵衛時に大なる煙管を所持せしが、夫れへ餘程疵付け居たり。蓋し其の煙管にて數遍過受け留めたることと見えたり。文後は臥しながら右の様子を聞き、其の儘立出でんとすれど、帶も解き寐たれば、帶むすぶむすぶ出かけ、戶口開きたるへ覗き見れば、暁方(あけがた)にて戶口に甚兵衛を切伏せ、庭の垣際に龍之進拔身を提(ひつさ)げ彳(あゆ)み居るゆゑ、是れは何事ぞと聲を掛けければ、龍之進大音にて否申(いやまう)すと共に討捨つるぞと申すに付き、畏れ畏れにて座敷の隅に隠れ居り、夜明けて出で見れば幸吉・松・勇助三人も同じく座上に切仆され居たり。嘉萬の利右衛門も庭の隅に屈み居りしを見付け、相謀り隣家遠き一軒家なれば、文後は外に出で、人殺人殺と聲を立て、利右衛門急ぎ目代(もくだいしょ)へ届けに參り、辰時比(たつどきごろ)歸り來り、文後一同戶口に伏せ居たるが、甚兵衛未だ息絶えざるに付き、助け座敷に引上げたれども間もなく絶命に及べり。勇助は即死なり。松は十一月三日の夜迄存命なり。時に甚兵衛五十四歲、勇助十九歳、松二十九歳なり。幸吉は正氣も慥(たし)かなる様子に付き、頭を手拭にて巻き介抱致しなどする内、地下人(ぢげにん)追々集りしなり。

龍之進・文後知音(ちいん)に相成りたる様子は、當春前(まへ)大津三隅村(おほつみすみそん)にて同道一宿せしより以來、浪人付合(つきあひ)、入魂(じつこん)に相成りしが、此の度も龍之進が手先に遣はれたることとみゆ。此の一夕の始末を觀ても、文後が怯臆(きょうおく)(もと)より、龍之進が犢鼻褌(たふさぎ)持つべき者なること知れたり。

幸吉妻登波は川尻にて獨り夫の留守を護り居たるが、朔日の日暮に走り告ぐる者あり、廿九日の夜、瀧部にて大變あり、委(くわ)しき事は小觸(こぶれ)の所に飛脚來れり、直(すぐ)に對面して問ふべしと云ふ。時に登波飯を移さんと杓子を持って庭に立ち居けるが、是れを聞くより赤脚(はだし)走りにて走り問ふに、飛脚云ふ、四人切害に逢ひたるが、內年長の人と年少の人は卽死たりとぞ。聞くより父甚兵衛・弟勇助の事たること間違ひもなければ、莊屋(しょうや)大田市郎兵衛方へ馳せ往き、只今より瀧部へ駆け附くる段を白(まう)す。莊屋云ふ、中々獨り行くことは不安心なり、五七人も健なる者を伴ひ行かねば危しとて、達(たっ)て其の行を止(とめ)る。又小觸の所へ往き、飛脚へ同道を頼む。飛脚は夜明けねば行かぬと云ふに付き、終夜腰をも掛けず立ちながらにて待つ。心の餘りにせかれ飛脚を強ひて起し、曉(あけ)七ツ時出立、二日の朝五ツ時瀧部へ達す。案に違はず父甚兵衛・弟勇助並びに死失(しにう)せ、幸吉妹松、夫幸吉は大瘡(おほきず)にて臥し居たれば、是れ迄は變を聞きながらも実とも得思はざりしが、此の有様を見るより驚くとも怒るとも無念さ云はん方なし。十一月朔日、御従目付(おかちめつけ)前原忠右衛門・村田満右衛門出張、同月十四日迄に御究(おきはめ)一件相濟みしなり。登波は如何とも詮すべなければ、出張の御役人へ、偏(ひとえ)に御慈悲を以て敵を御討たせ遣(よこ)され候様にと嘆願申上げたれば、只今左様の儀は相成らざるに付き、此の後敵の住所相尋ね申出で候はば、其の節の御捌方(おさばきがた)あるべくとの事なり。かくて上にも検断目明(けんだんめあかし)等を以て種々龍之進行方御尋ねさせられけれども、逐に相知れざりしなり。

扨て離縁の儀雙方納得の上、酒をも給合(たべあ)ひたる程の儀、遺恨あるまじき様なるに、多人數殺害に及ぶこといかにやと、御究(おきはめ)の節再應糺されけれども、幸吉・登波並びに田中文後などの申上げ皆同様にて、龍之進は元來易數(えきすう)を考へ、棒其の外指南し、威權(いけん)がましき男なるを、離縁一件に付き、悪様(あしざま)に申し成せしと、夜明け前付木(つけき)を尋ねたる時、松事不精(ぶしょう)の返答せしとの外、殊(わけ)て殺害に及ぶべき心當り之れなくと一同云ひたるよしなり。然れども再び其の実を考覈(かうかく)するに、龍之進別に密通の女ありて松を厭ふ心になり、自()ら夫妻の仲和睦せず。從って幸吉とも不快になり、加之(くはふるに)、松事甚兵衞方へ往き居たるに付き、妄りに嫉妬の念を生じたることかと思はる。要するに其の悖亂狂妄(はいらんきょうもう)復た人理を以て論ずるに足らず。

登波は心は矢竹(やたけ)に思へども、夫の病氣に頓着(とんちゃく)して日を送りける内、幸吉瘡所も翌午年(うまどし)早春頃には餘程快氣(くわいき)致し、二月十一日には召出され、右の始末御究をも仰付けられたる程の事なれども、何分數ヶ所の瘡より大いに否拔(ふぬけ)致し、且つ身體も衰弱に及び、以前の如く働きも相成らず、一両年は所詮病床勝ちにて田畠へも得出(ようで)ず、後々には癲癇病に變じ、折々發病にて難儀致しければ、登波至極懇ろに看病を加へ、寝食の事何かと朝暮氣を付けけれども平癒せず。彼是の内三四年も相過ぎ、登波心底には父弟の横死を悼み、遺恨止む時なく、復讐の念勃々と差し起り、寝食をも忘れ憤發せしが、此の儘に月日経去りては彌々(いよいよ)讐の蹤跡(しょうせき)も絶え果て、年頃の志願空敷く相成り申すべきやと、夫れのみ苦心罷り在り、或る日幸吉の病の間を伺い、密々心事語らひければ、幸吉申すには、其の方に父弟なれば、我れ數年夫婦と相契り居り候ことに付き、我れにも矢張父弟同様の事、且つ妹松を切殺し候仇なれば、我れも共々敵打の心を助け度く存ずれども、病苦に頓着し是れ迄空敷く打過ぎたるが、其の方所存(しょぞん)承る上は月日を移さず速かに出で立つべし、我れも全快せば後より尋ね行き申すべしと云へば、登波世にも嬉しげに夫に厚く禮を述べ、志を励まし、且つ夫をば氣を付け呉れよと懇意の間へ賴み置き、彼れ等式(らしき)、旅裝と申す程の事も心計りにて、文政八年乙酉三月、懇ろに暇乞して家を出で立ちたり。是れ瀧部の大變より五年目の事にて、此の時幸吉は三十九歳、登波は二十七歳、登波、幸吉に嫁してより九年目の事と聞ゆ。豈に圖(はか)らんや、是れこそ今生の別れとはなれり。

かくて登波は川尻を立出で、萩を通り、奥阿武郡(おくあぶぐん)より石見(いはみ)へ移り、津和野(つわの)城下へ越え、高角(1)人丸社へ參詣、濱田へ通り、銀山・大森を經、藝州筋の事も聞合はせけれども、龍之進何れ廣嶋邊には足附かず、兎角四人も切害に及びたる大惡ものなれば、近國に留る間敷くと思ひ、出雲へ越え、大社・日御崎(ひのみさき)等へ參詣し、松江邊彼是詮議致し、伯耆(ほうき)の大山(だいせん)因幡鳥取の城下へ通り、但馬・丹後・若狭に出でて、此の邊にて酉年は越年(ゑつねん)せしとぞ。同九戌年(いぬどし)に至り、近江・美濃・伊勢・紀伊へ廻り、高野山へも立寄り、女人禁制の場所迄も參り、和泉・河內より大和に至り越年す。登波つらつら相考ふるには、京都・大坂は御國人每々往來立寄りの地なれば、悪者共決して足を止(とど)む間敷くと思ひ、大和より伊賀を經、又近江へ立戻り、大津驛より三井寺比叡山其の外打廻り、京都中の神社佛閣數々拜禮して、丹波の龜山・攝津勝尾寺・播磨書寫(しょしゃ)山より大坂へ出で、淀船にて伏見に上る。夫れより賊彌々內近國には居らず、奥羽・關東へども立去りたるらんと思ひ定め、美濃より木曾地を東へ下り、信濃に入り飯田の城下に過(よぎ)り、上諏訪・下諏訪・和田峠を通り、善光寺へ參詣、越後へ過(よぎ)り、今町を通り新潟に至り、陸奥に入り、會津の城下を通り、仙臺に出で、何ほ又東へ下り南部の恐山(おそれやま)に參れり。恐山は陸奥の東北の果にて內地はここに盡き、海を隔てて蝦夷松前に連れる所なり。

扨て夫より津輕に向ひ出羽を廻り、又陸奥にかかり、岩城を通り、常陸に出で、筑波山に登り、下野の日光山へも參詣し、遂に江戸に出づ。出入三年滞留して、其の内所所方々をも相尋ねたり。

夫れより水戶道中常陸筑波郡藤代宿にも滞留し、又同郡若柴宿百姓市右衛門と云ふ者にも宿せしが、是の時年三十三にて、不圖病氣附き、百日餘り打臥し居たるに、亭主殊の外懇ろに保養致し吳れければ、快氣後、上總・安房等打廻り、又若柴へ戻り、先達(せんだつ)ての禮奉公として滞留、農家の手傅致し、一兩年も罷り居たり。

巳に宿所立出で、江戶より相模を通り、伊豆の最南の出崎、手石彌陀・イロウ(2)權現迄も拝體し、東海道筋へ出で、又遠江の秋葉・參河の鳳來寺等へ立寄り、宮(みや)の渡(わたし)を打渡りて奈良へ通り、紀伊國加田へ出で、十三里の渡りを亙(わた)り、阿波の撫養(むや)へ上(あが)り、土佐に移り、伊豫を通り、讃岐より備前田ノ口へ上り、處々尋ねけれども、終に蹤跡知れざれば、又常陸の若柴宿を指し歸りける。

(さき)に市右衛門方にて病氣の時、最早快氣覺束なしと覺悟致せし故、亭主へ委細の次第物語し置きたるが不思議に快氣せしなり。茲に市右衛門が二男龜松と云ふ者は、登波よりは十五歳許り年若(としわか)にて、義氣逞しく天晴賴母(たのも)しき男子にて、折柄心願之れあり、讃岐の金毘羅へ參詣仕り度しとの事に付き、渡りに舟を得たる心地致し、密々志を通じ、兼て復讐の大望の事、尚ほ又打明け相談せし處に、龜松、夫れは助太刀致すべきよし承諾し、父市右衛門へ內々他人を以て此の趣申解()き貰ひければ、市右衛門申す樣は、素生(すじょう)も知れぬ女を連立ち出づること不納得にはあれど、親兄弟の勘當を受くるとも助太刀致し、大望を遂げさすべくとの心底たらば、其の方大志願成就(じやうじゆ)の上は一人にて歸國し、詫言(わびごと)申すべしとの事なれば、其の分に任ずべしとの事に付き、龜松は兩親の許を受けたるも同様と喜び、登波連立ち密かに宿所を立出でたり。

夫れより日光山・中禅寺・善光寺等へ参詣、飛彈・加賀・能登・越前の國々探し索め、京都へ登り、又紀伊より四國へ渡り、讃岐の金毘羅へ參詣し、安藝の廣嶋へ着岸して、初めて敵龍之進が所縁高田郡秋町村にあるよし聞出し、其の邊へ度々罷り越しけれども、何分有所(ありか)相分らざる內、同郡吉田に、龍之進老母之れある由聞出し、尋ね行き申すは、われら夫婦關東邊の者に候所、此の邊に剣術指南の浪人名をも失念仕り候、其の老母とやらの所縁之れあり、折節此の邊へも參られ候由に承り申し候。御聞及びどもは之れなきやと、彼方此方聞き繕(つくろ)ふ。吉田より半道(はんみち)程下(しも)にて畠を打つ男に、何如にもよく龍之進に似たる者あり。登波は是れならんと思ひ、龜松と內談し、若し敵龍之進にて候はば、懐剣にて切殺し申すべき心底に候へども、流石の龍之進、若し返り討に逢ひ候はば、助太刀御討取り下されかしと申しければ、心易く思ひ候様申すに付き、立寄り、少々御問ひ申し度き事の御座候と申せば、頭の手拭をぬぎ何事に候やと申すを能々(よくよく)見れば、全く龍之進にては之れなきに付き、私共は關東の者にて物詣(ものもうで)に此の邊通り掛かり候處、私近所の男に此の邊にて剣術御指南の御方の御門人に先年相成り居り候て、御厚恩に預り候者、御目に掛かり御一禮申し吳れ候様にと申し候。數日の間に御姓名は忘れたり、御心當りどもは之れなきやと尋ねければ、彼の者心當りの人相噺しけれども、年齢四十歲位と申し、合はざるに付き、私共頼まれ候御方は五十位の御年齢と承り申し候。私共は無筆にて存ぜず、噂に承り候へば、字學は達者にて候へども、師匠取り候て達者なる者とは相見え申さざる様風聞に御座候と云へば、夫れならば龍之進と申す者にては之れなきやと云ふにぞ、是れこそ敵龍之進の事と飛立つ如く思へども、態と御名は聞き候へども覺え申さずと云へば、各様方は龍之進仲間の御方に候やと云ふに付き、否々、龍之進と申すは如何なる人か知り申さず候へども、私共は關東邊の者にて小百姓に御座候と云へば、此の邊は××村にて龍之進も仲間中にて候、御百姓に候はば此の邊に御宿は相成らず、是れより二里程御下り成され候へば、其の所に龍之進母兄共居り候に付き、其の邊にて御尋ね成され候へば委敷(くはしく)相分り申すべしと云ふに付き、私共は傳言賴まれ候のみにて候へば、強ひて相對には及び申さず、御相對成され候節、此の段御噂下され候へかしと頼み立去れば、其の形色を怪しみたりしにや、跡にて、龍之進が殺したる男に娘之れある由、それにてはなきやと獨言につぶやきたるよし。是れにて年來石見浪人とのみ思ひ居たる枯木龍之進、實は安藝御領の××なる事は始めて知れたり。

登波は益々奮發し、二人河筋に添ひ下れば小村あり、是れ三次より一里計り上なり。此處も備後三次郡の內にて、安藝御領とぞ聞ゆ。其の所の百姓屋に一宿し、龍之進事餘所事(よそごと)に問ひ候處、夫れは九州彦山(ひこざん)に娘有り付き居り候に付き、其の邊へども參り居り候や、近年は此の邊へは歸り申さざる所、一昨年比(ごろ)より歸り居り、又々當春の頃より旅行致し內居(ないきょ)申さず、兎角彦山へども參りたるにて之れあるべしと噺しける。時に三月上巳(じやうみ)の事なりしが、處の習にて××ども物貰ひに來りつるに、姥男兩人あり。則ちあれが、龍之進母と兄にて候由、宿の者物語りたれど、脇へかはして強ひての答もせず。

明朝宿立出で近所に二宿致し、夜中夜中龍之進が宅へ參り立聞きするに、內居(ないきょ)せざるに相違なければ、敵龍之進彌々(いよいよ)彦山に居るべしと決し、嬉しさ云ふばかりなく、天地神明を禮拜し、亀松も年來の約束通り助太刀致すべしとて、一先づ御國へ立歸り、願の上にて計らひすべしとて、石見に懸り大森・銀山を通り、御城下萩松本へ歸り、濱崎目明(はまさきめあかし)與八と云ふ者へ相對致し、右積年の志願、所々方々辛労して遂に賊の在所(ありか)探し付けたること迄話し、何分敵御討たせ成され候様に願出で吳れ度く相賴みしが、一應在所(ざいしょ)へ歸り、先大津(さきおほつ)目明に取次がせ願出で候樣にと申すに付き、直様角山(たださまつのやま)村へ歸着せしは、天保七年丙申四月の事なり。

抑々登波が吉田邊を探索せしは、由縁あることにて、初め龍之進が娘千代登波方に預り居る時、何心なく、汝が親達は國元にては何をなさるぞと問へば、馬沓(うまぐつ)を作らるると云ふに付き、馬沓を作りて何にするぞと問ふに、吉田へ持ち出て賣るなりと答へしことの耳底に残り居たれば、敵尋ねに出づるより、何んでも吉田と云ふ所の近傍が、敵の在所に相違はなしと、何國とも知らず、心には懸け居たるに、四國にて風(ふつ)と安藝に吉田と云ふ所のありと承り、是れならんと思い付きて、往き索(もと)めたるに、果して是なれりとぞ。

扨て龍之進が娘彦山に有り付き居ると云ふは、即ち千代がことにて、十六ヶ年以前大變の節、龍之進が栗野口の無宿(むしゅく)非人小市に預け置きし故、其の節地下(ぢげ)よりも小市よりも其の次第届け出でしが、究明の上、拾子の取計らいに仰付けらる。其の頃彦山山伏梅本坊法用(ほふよう)にて彼の地へ參り、連れ歸り養女とし、後名を兎伊(とい)と改め、同山寶藏坊が妻と成り居るとなん。

登波角山に歸り、內の様子を尋ね問ふに、十二年前家を出づる後も、夫幸吉病氣始終全快ならざれども差し抑へ、其の內跡を追い旅立ちたるよしにて、行衛相知れず。登波は折角十二年の道行、尚ほ常陸人亀松へ助太刀相賴みたる段、夫幸吉へ一々話すベく樂しみ居たるに、案の外なることにて、愁傷の餘り當惑に及びけれども、猶豫(いうよ)致さば敵龍之進又孰(いず)れへ立去るべきや心元なく、片時も緩(ゆる)がせにすべからずとて、龜松に勇(いさ)められ、又伯父茂兵衛に密談しければ、茂兵衛も人命不定(ふぢやう)に付き、敵居所相分り候へば、片時も閣()くべきに非ずと云ふに付き、願出るにも及ばず、亀松同道にて直様打立ち瀧部村に至り、甚兵衞其の外の墓參致し、位牌等寫(うつ)し貰ひ、彦山へと急ぎ打立ち下關迄往きしに、松五郎(3)名代として茂兵衛事、後より追いかけ、是非とも一應立歸り候へと、御代官所より御內移(ごないうつ)りありたる由にて、詮方なく兩人共に角山へ歸着す。是れ萩目明與八より內々政府へ登波・龜松の事届け出でたるに依って、政府より御代官所へ指揮ありたることと聞ゆ。

かくて政府には衆議區々(くく)にて、或は賊を捕へ來り、萩扇の芝と云ふ所に矢來を結び、明白に復讐さすべしと云へども、復讐は逐に盛事に非ずとて、龜松・登波が事に付き、五月廿八日政府にて決議し、御代官所へ沙汰せらるる所左の如し。

先大津瀧部村に居り候宮番娘登波と申す者(是れは父甚兵衛へ係けて云ふ故瀧部と云ふ、瀧部は豊浦郡にて先大津宰判に隷す)の親(甚兵衛なり)兄弟(弟勇助なり)を前廉(まへかど十六ヶ年以前文政四年十月廿九日)同所に於て、浪人枯木龍之進殺害に及び立退き候。登波親兄弟の敵に付き、何卒龍之進在處尋ね出し度き存念之れあり候て、十六ヶ年以前より所々方々相尋ね候內、(登波家を出でてよりは十二年なれども茲に十六年と云ふは大變の年より數ふ)龍之進儀藝州者と聞糺し候に付き、御討たせ下され候様にと罷り歸り相願ひ候。然る處瀧部・川尻其の外にても親類所縁の者之れなく、當座引受け仕り候者之れなきに付き、先づ當分の儀は御代官所(まか)せ仰付けらる。龜松儀は不義密通者に付き、入割(いりわり)申聞かせ生國罷り歸り候様、是れ亦御代官所より授けさせ申すべし。且つ又龍之進事は九州に之れあり、過半其の方に滞留仕り、藝州に老母も之れあり候儀に付き、折々往來致し候様に登波申出で候。人殺罪の者に付き、密々聞糺しの上、召捕り候様仰付けられ候。

右の趣御代官所へ下りければ、六月廿日、大庄屋久保平右衛門、龜松・登波兩人を私宅へ呼出し、委細御授けの旨趣を以て段々申聞かせし所、龜松は數百里の遠路一方ならぬ艱苦を凌ぎ、事に寄っては一命をも打拾つべくと踏みはまりたる任俠の氣節を毫末(ごうまつ)も諒せられず、却って不義密通の者などと黜辱(ちゅつじょく)せらるる、嘸(さぞ)かし無念にやありけん、此の沙汰を讀聞かせければ、ほろほろと落涙致し、即座に畏(かしこま)り奉り候段申陳べ、登波事は格別違背の申分はなけれども、有無の返答仕(つかまつ)らざる故、兩人へ今一夜は熟慮せよとて河原へ留め置き、明朝又々呼寄せ、再應落着筋(らくちゃくすぢ)を尋ねければ、兩人とも全く納得せしに依って、亀松へ路用金として二兩相渡しければ、龜松より一札を差出すこと左の如し。

   申上候事

私儀常州筑波郡若柴村百姓にて御座候處、御當國出生登波と申す女、去る卯春(うはる)、女風(ふつ)常州邊通り掛かり病氣差發(さしおこ)り滞留仕り候内に、大望之れある身柄に候へども、女の一人旅にて覺束なく、何卒同道仕り罷り出で力を添ひ吳れ候様にと申す事に御座候故、余儀なく召連れ順々罷り下り、先達て御當地迄參着仕り候處、登波儀は御當地の者故差置かるべく候へども、私身柄の儀は他國ものにて御國法も之れあり、長滞留仰付けられ難く候旨、段々御入割を以て仰聞かされ畏(かしこま)り奉り候。然る上は登波へも其の段申聞かして納得仕り候に付き、私は早速御當地罷り立ち歸國仕り候。

前段の通り仰聞かさる筋、尖(さき)に御受け仕り候段申上げ候處、是れ迄女を召連れ候ての儀に付き、歸國の路用貯へ等も之れある間敷くとの御事にて、金子二兩頂戴仰付けられ甚だ恐れ入り難有き仕合せに存じ奉り候。尚ほ又登波存念筋に於ては、內々様子承り居り候儀も御座候へども、至極隠密事に御座候へば道中は申上ぐるに及ばず、歸國仕り候上にても他言仕る間敷く候。旁々(ほうぼう)以て念の爲め一札印形仕り差上げ置き申し候。以上。

  申六月

かくて、龜松は六月末方立歸り、登波は當分松五郎方へ留置き、物每懇ろに氣を付け遣し、夫れより組合の世話に相成り、其の後角山村に宅を構へ居たるとかや。

九州彦山へは萩目明與八・先大津目明松五郎を、直横目(ぢきよこめ)茂助へ差添へられ、陰密に探聽相成りけるに、娘兎伊、彼の山内寶藏坊へ嫁せしより、其の由縁(ゆかり)出來、龍之進は佐竹織部と改名し、折々登山も致す趣彌々相違なき故、捕方の儀に付き、松五郎豊前國へ渡海、香春(かわら)宿目明利吉・久市、添田(そえだ)宿目明利吉・彦山目明好助四人へ相賴み、下關目明彌五郎よりも、書状を以て相賴み越し置きける。(彦山及び香春・添田並びに田河郡にあり)

登波は亀松追返され、蟹の手を失ひたる心地にて、頗る途方を失ひけれども、第一は御上より御手を入れられ下さるること、次には松五郎へも精々相賴み疎(おろそか)なきこと故、敵討の事は暫(しば)しは止りたれども、何如にも胸中忘れ難く、每々松五郎へ、何如に何如に、とせりつめければ、松五郎は唯だ時を待て時を待てとのみ申すに付き、益々悲しみ憤れば、松五郎も程克()くなだめしにぞ、時を待ち居りけるに、白駒(はっく)の隙(げき)の留らずして、四五年も打過ぎしが、天保十二辛丑三月十日、敵枯木龍之進事當時佐竹織部儀、彦山麓に於て捕方相成り居り候段、彦山の好助・添田の利吉より、下關の彌五郎迄申來る。夫れより先大津(さきおほつ)の松五郎へ通達す。松五郎出萩致し、其の趣注進す。好助・利吉より彌五郎への書左の通り。

飛脚を以て御意を得候。暖和の砌(みぎり)に御座候所彌々御堅固に御座成さるべく珍重に存じ奉り候。去る冬竹部目明より御頼み(竹部は瀧部の普通にして其の實は小田目明松五郎を誤れるなるべし、松五郎より頼み置きたるは天保七年の事なり、而るに去冬と云ふは其の後追々催促をも致し、特に去冬改めて頼み遣はしたる事とぞきこゆ)萩御領內科人(とがにん)佐竹織部と申す者、彦山へ昨九日一宿仕り、今朝夜込に出立ち候趣承り候間、早速手附の者共召連れ同山麓村にて今八ツ時召捕り候間、此の段飛脚を以て御意を得候。尤も同人荷物筑前小石原より宿継(やどつぎ)を以て添田宿に継込(つぎこみ)に相成り居り申し候間、早速同宿御役人衆中へ御届け申出で置き候。此の旨貴所様より先方へ早々御通達下さるべく候。佐竹織部身柄拙者共預り置き申し候。大切なる身柄に付き、此の状届き次第に貴所様には當宿へ御出張下さるべく候。右申進め度く態と飛脚を以て是の如くに御座候。以上。

  三月十日

彦山目明 好助

添田目明 利吉

 萩屋彌五郎様

萩にては、十四日夜松五郎到着、何角(なにかど)の用意相調ひ、十五日夜直横目茂助・撿断二人・目明手先一人並びに松五郎同道出立、十七日朝下關着、彌五郎に相對、十八日香春宿目明虎屋利吉方へ着す。翌十九日朝、一達添田宿に至る。彦山目明好助出迎へ、旅宿新屋專作へ落付き、好助へ對談せしに、好助云ふ。織部事、去年も六月九月兩度、彦山へ罷り越し、源正坊に相滞り、且つ政所坊へ借銀の口入(くちいれ)取引半途も之れある趣にて、是非とも政所坊へは相便り候事に付き、兼て彼の方へ織部登山仕り候はば知らせ吳れ候様相賴み置き候て、相待ち居り候へども、彦山松會時分にも罷り越し申さず、小松には定めて參るべしと、添田宿利吉とも兼て示し合はせ置き候處、折柄利吉他國致し候に付き、倅幾平登山仕り俱々(ともども)相待ち居り候所、當月九日政所坊へ罷り越し候段內通之れあり、翌十日又出立ち候段知らせ申來り、兎角織部娘千代當時兎伊儀、寶藏坊妻にて、七歳に相成る娘も之れあり候處、彼の兎伊より私共兼て心掛け候段を相移り候やにて、急に出立仕り、右故俄かに方々手配り仕り、彦山領一の宮谷にて私手先新平道連(みちづれ)に相成り、無術に棒を以て足を横なぐり、頂をも擲()ぎ臥せ、残る者ども腰物(こしのもの)大小を拔取り、十口の内、私駈付け候て、二十餘年以前枯木龍之進と名乗り、萩御領內にて宮番の者家子四人討殺し候儀之れあるやと相尋ね候處、其の儀相違も之れなく、尤も三人は即死、一人は全快仕()たるやに聞及び候由相答へ、且つ又藝州の××と申す樣に相聞き候處いかがやと申掛け候所、全く左様の者にては之れなく、石州那賀郡都治村出生にて、素性正敷ものに相違之れなき段申す事に付き、達(たつ)て相糺(あひただ)すに及び申さず、人を殺し候段相違之れなく候へば、兼て萩御領大津郡小田の松五郎より捕方(とりかた)の儀相賴まれ候に付き、引渡しに及び申すべくと申渡し、手堅く締(しま)り仕り私宅へ連歸り候。然るに同山正賢坊事、去々年冬比(ごろ)にて之れあるべくや、筑後邊より渚と申すもの下人に雇ひ連歸り、年齢二十四五歳位にも相見え、其の後增光坊の弟子に相成居り候處、織部子に相當り候やと兼て差込も之れあり候處、案の如く織部相捕へ候即時逐電(ちくでん)仕り、今に行衛相知れ申さず候。其の由をも相尋ね見候處、全く倅にては之れなく、少しの由縁も之れなしと申す事に付き、右渚は態(わざ)と見遁(のが)しに仕り候段申聞かせ候處、御心入の段難有しと挨拶申し置き候。猶ほ織部申す事には、京都中山大納言殿内森石見へ、佐竹渚よりの書狀壹通、金子四兩在中と之れある分は、御慈悲を以て御取捨下され候様、且つ又筑後國福光大莊屋內田市太郎と申すもの、石見國神主村大寶坊へ借銀手遣ひに付いて、白砂糖六拾斤・菓子料金千疋・證文并びに書通等、小倉にて久留米御用達(ごようたし)大里屋善右衞門へ御頼み、市太郎へ送り返し吳れ候様、尚ほ白木綿其の外娘兎伊へ遣はし度く、彼の者もいづれ御山内には居られざるやに相考へられ候に付き、此の以前尋ね行き候母方を便り罷り越し候はば、銀も預り之れあり候に付き、其の由御申含め下され候様、尤も木綿三反の内一反は私へ遣はし度く申し候へども相断り候。且つ長門國へ引かれ候ては、とても助命は相成らず候に付き、何とぞ所持の觀音經をば御渡し下され候様相賴み候に付き請合(うけあ)ひ、經をば壹冊相渡し、其の餘の儀は萩方と申合はすべしと申聞かせ置き候。翌十一日當添田宿目明利吉方迄送り出し候處、當宿に於ては織部荷物筑前國小石原宿より人馬帳相添へ継込み候所、京都中山殿御内森石見より、要用に依りて肥前長崎迄差越すと之れあり候處、最前の付出(つけだ)筑後國久留米より起りにて旁々(かたかた)不審に相見え候に付き、継立(つぎたて)如何在るべきやの段小倉表へ伺出(うかがひで)に相成り居り、且つ私よりも右荷物御留置相成り候様にと御役人衆中へ御届申出で置き候て、旁々右織部儀は當宿相滞り、手錠締まり猿繋ぎにして多人數番人等付け置き候所、十四日夜八ツ時比(ごろ)番人の者計らず眠を催し物音仕り候に驚き、織部立出で候を見請け仰天仕り、孰(いず)れも追掛け罷り出で候處見失い、漸(ようや)く升田村にて馳付け候處、同村密ヶ獄に遁込み候に付き、同山裏手上中元寺村へ相賴み前後より穿撃仕り候處、十五日朝中元寺村馬場と申す所まで行き遁れ、織部も遁場(にげば)之れなしと存じ詰め候や、道中にて自害の體に相見え候に付き、早速馳付け差押へ候へども、最早危丁を以て腹堅に六寸計り切破り、左の手にて腸を摑み出し候へども、未だ事切れ候様にも相見えざるに付き、早速浜崎村醫師中嶋玄通・庄村外療醫宮城萬斎、同人弟子两人、以上四人にて見合はせ相成り候處、快気の程未定に候へども一先づ療治仕るべき由申され腸を押込め縫立て相成り候所、聲を發し、十六日朝に相成り候ては喰餌(しよくじ)も給べ快方にも相見え候處、暮比に至り容體相重(おも)り、又々醫師相招き種々薬用仕り候へども、同夜五ツ時比(ごろ)落命に及び候。右刃物の儀は利吉方棚に之れあり候菜切庖丁にて兎角首輪切拔き候様相見え、手錠は畠(はた)べりに落捨(おちすた)り居り、觀音經はいづれに落し候や相見えず、尋ね吳れ候様、其の後以て度々相頼み候へども今に相知れ申さず、折角捕へ方相頼まれ候處、緩(ゆる)がせに致し申譯も之れなき段を陳ず。添田町庄屋又三郎も罷り出で、都合同樣の申分なり。織部事、住所は石見那賀郡・筑後久留米兩所に搆へ、金銀貸借口入、又は賣卜剣術指南をも致し、每々御國中熊毛(くまげ)・都濃(つの)・小郡(おごほり)邊をも通路し、或は滞留せしことも有るよし、實に悪むべきの甚だしき者なり。死時五十四歲とぞ。織部娘兎伊、二十年以前、中門坊連歸りけれども、彼の坊素より子息も之れあり、殊に素生(すじよう)も慥かならざる者連歸りたるは、織部より銀をも貰ひ頼まれたるならんとの風聞もあり。其の後五六年して、寶藏坊へ遣はしし由。(織部娘を連歸りたるは梅本坊なりと登波は申すなり。中門坊云々は直横目茂助の聞く所なり。二説是非決し難し。疑ふらくは梅本坊歸りて中門坊へ託するならんか。)中門坊は先達て病死、是の時は二代目に相當るなり。兎伊當年二十八歲に相成り、娘も之れありしが、父織部召捕らると承り、娘を差殺し自害したるやに風聞す、又は遁れ去りたるとも云ふ。是れ彼の地其の時の傳說なりとぞ。

扨て又三郎付立を出す。即ち左の如し。織部所持の品々なり。

   所持の品覺

一、蓙(ござ)包二ツ 但し符儘(ふうのまま)

一、風呂敷包三ツ 但し符儘

一、蓙二枚

一、中山殿御內森石見人馬帳一冊

一、京都中山大納言様御內森石見様行き書狀一通 但し金子四兩在中

一、符箱一ツ

一、證文一本 但し內田市太郎

一、菓子料一包 但し金子入

一、石州大寶坊様行き書狀一通

一、小財布一ツ 但し金子人

一、大小一腰 但し脇差鞘損じあり

一、筮竹(ぜいちく)袋入

右の通りに御座候。以上。

  三月                                        添田町庄屋 又三郎

右の通り付立を以て荷物旅宿に持來り、又三郎・好助一同立會の上、荷物符(ふう)放ち取調べたる所、左の如し。

   付立

一、本大小十四冊

一、經一巻

一、人馬帳一冊

一、往來手形一通箱入

一、文箱一ツ

一、筮竹二通り袋入

一、棧木(さんぎ)一包

一、白木綿三反

一、袴一具

一、財布一ツ

一、金子取合はせ三步二朱 但し御初穂一封とある分とも

一、京都中山大納言殿內森石見へ佐竹渚よりの書狀一通 但し金子四兩在中と之れあり候へども不審に付き、披符(ひふう)致し候所鐵金具の様なる物三ツ入れ之れあり

一、證文一本 但し筑後國久留米領三潴郡福光大庄屋內田市太郎より石州那賀郡神主村大寶坊へ當る借用銀證文なり

一、菓子料一封 但し金千疋同人より大寶坊へ當る

一、書狀一通 但し同人より大寶坊へ當る

一、白砂糖六十斤

一、大小一腰

一、風呂敷大小八ツ

一、目鑑一ツ 家入

一、茶六袋

一、書六枚

一、鐵粉其の外一袋

一、古具足一風呂敷

一、懐中上袋一ツ

一、書通其の外反古類一括り

以上

   寫

  天保十一庚子三月十五日立

上銘 人馬駄賃帳

佐竹織部

右の者今般要用に依り肥前長崎迄罷り越し候間、宿々川渡人馬止宿等差滞り之れなき様取計らひ給ふべく候なり

  子三月                                    中山殿御內 森石見

京都より肥前長崎迄 宿々問屋役人中

   往來手形の事

一、石州御代官岩田鍬三郎支配下

佐竹織部

右の者儀拙寺檀那に紛れ御座なく候。今般四國遍路并びに肥前國清政公(肥後國清政公をかく誤れること笑うべし)參詣の爲め發足仕り候處、國々御關所海陸とも滞りなく御通し下さるべく候。若し日行暮れ難澁仕り候はば止宿御頼み申上げ候。萬一何國に於ても病氣或は病死仕り候とも此の方へ御届に及び申さず、其の所の御作法を以て御葬り下さるべく候。

念の爲め依って一札件の如し。

紀州高野山正智院末石州銀山御料那賀郡都治本郷

  天保十一子二月                    真言宗圓光寺

國々所々 御關所并びに村々御役衆中

以上

   覺

一、白砂糖六拾斤壹箱

一、菓子料金子千疋壹包

一、證文一通

一、書狀一通

織部所持の品の内、白木綿三反娘兎伊へ遣はし呉れ候様、且つ筑後國幅光大庄屋內田市太郎と申す者石見國神主村大寶坊へ借用銀手遣ひに付いては、品々御當國小倉にて大里屋善右衛門へ相賴み、市太郎へ送り返し呉れ候様、存命の內好助殿へ申殘し置き候趣に候へども、織部所持の木綿は今に於て兎伊へ遣はされ候様相成り難く、右一ツ書の廉々市太郎へ送り返しの儀は書通申殘し旁々正據(しやうこ)も之れあるやに相考へられ候に付き、御引渡し申し候間御受取下さるべく候。以上。

  天保十二丑三月廿日

下關 彌五郎

小田 松五郎

 彦山 好助殿

 添田 利吉殿

右の通り相調へ現場引き調べ好助へ相渡す。好助・利吉より請取を出す。廿日、茂助其の外一達、中元寺村に至り、庄屋彦左衛門及び又三郎・好助・幾平一同立會ひ、死骸撿分の蠣灰(かきばひ)を以て箱詰にして添田宿迄送り出す。疵所(きずしよ)等最前(さいぜん)の又三郎・好助の言に違ふことなし。衣類は三階菱紋付(もんつき)形付單物一枚なり。地半(ぢはん)一枚、帶一筋のみなり。廿一日朝に至り、織部××なること專ら風はありて、彼の地役方(やくかた)の者人夫差出し苦しとの事に付き、彌五郎・松五郎より好助・利吉へ左の一札を出して事済みたり。

其の文に云はく、

佐竹織部××と申す風聞も之れある由に候へども、全く其筋に之れなく、石州那賀郡都治村百姓に相違御座なく候。依って一札差出し置き申す所件の如し。

  天保十二丑三月廿一日

右にて事相済み、同朝添田出立、深更に及び、赤馬關着船、二十四日、萩歸着せり。扨て枯木龍之進改名佐竹織部は、備後三次(みよし)の××なることは、登波親しく其の地に至り見聞せし所正實なり。但し豐前にて、一時の權辭(けんじ)より石見浪人と諸文書に見ゆれども、其の實は然らず。

かくて龍之進死骸籠屋に假埋仰付けられ、御法の通り、十二月六日斬首、瀧部村に梟首(きょうしゅ)仰付けらる。登波之れを承り、且つ喜び且つ怒り、瀧部村へ走り行きて、死首に向ひ、爾(なんじ)先年父弟切害、夫幸吉に深手(ふかで)を負はせ、剩(あまつさ)へ幸吉妹松をも切殺し、立去り候浪人枯木龍之進、十數年讐を報いんと、五畿七道身を窶(やつ)し尋ね覓(もと)めしに回(めぐ)り逢はず、空敷く月日を送り候處、此の度上様御慈悲の餘り此くの如く仰付けられ候、思ひ當り候へと白眼付(にらめつ)け、短刀を提(ひつさ)げ立ち向ひし由。

此の時の御代官役張(ちょう)三左衛門至増、其の段政府へ届出で、且つ登波一生一人扶持立て下さるとの事なり。

初め直横目以下豊前へ向ふ時、登波頻りに從行し度きよしを願ひたれども、御作法之れあり、其の儀相叶はずとの事にて踏み止りたるが、敵龍之進は彼の地にて自殺し、梟首せられしは瓢箪の腐りたる様の者のみなれば、無念さ云はん方なし。箇様と預(あらかじ)め知りたらば、願なく私に往くべきものをと、今に以て遺憾とすと、登波自ら云へり。登波儀常陸國若柴宿亀松に大恩之れあるに因りて、敵の梟首を告げ知らすべくとて、明年四月、密かに養子鶴蔵と云ふ者九歲に相成るを連れて若柴へ參りしが、惜しいかな親市右衞門も龜松も先年相果てたる由にて、家内の者へ挨拶を述べ、十日程滞留し、歸りに日光山・善光寺等へ參詣致し、其の年十月角(つのやま)へ歸着せり。

其の後十六年目、安政三年丙辰、孝子義人の詮議仰付けらるるに付き、十月御代官勝間田(かつまだ)權右衛門盛稔、旌表(しょうひょう)并びに褒美の事取行はれしこと左の如し。

幸吉後家  登波

右文政四年辛巳十月廿九日枯木龍之進と申す者、登波身元甚兵衛方一宿せしめ、父甚兵衛弟勇助夫幸吉妹三人を切殺し幸吉に數ヶ所の疵を負はせ立去り、種々行方御尋ねさせ仰付けられ候處相知れず、夫幸吉も数ヶ處の批より大いに衰弱に及び癲癇に變じ、色々看病せしめ候處、急に全快も心元なく、父弟の仇共に天を戴かざるの遺恨止む時なく、此の餘猶豫せしめ候はば讐の蹤跡も失ひ、終には志を得果(えはた)さぬに立至り申すべくやと彼是氣をもみ、夫幸吉に相談せしめ納得の上心を励まし身をやつし郷里を立出で、山陰北陸の國より江戸に出で、奥羽及び五畿內四國迄も穿鑿(せんさく)せしめ、十二ヶ年の間野臥山臥の艱難心苦を盡し候へども、得尋(えたづ)ね當り申さず御國へかへり掛かり、藝州にて粗()ぼ龍之進在處聞出し候に付き、萩へ罷り越し敵御討たせ下され候様にと申出で候處、彼れ等式にても御國民一統を洩れずと御座候て、天保十二年辛丑三月捕人九州彦山へ差向けられ候處、龍之進密かに様子承り自殺に及び候に付き、死骸を斬罪、首を瀧部村に掛けられ御國法に處せられ候に付き、生に復響せずといへども、偏に此の者の孝心御仁政の餘澤にあらはれ、且つは天地神明の冥助により宿志を果し候處、深く賞するに餘りあることに候。今般孝子義人の詮議仰付けられ候處、幸に登波存命にて比類なき者に付き、門戶に旌表仰付けられ候事。

  安政三年丙辰十月

   覚

幸吉後家  登波

一、米一俵

右先年父甚兵衞弟勇助殺害に遭ひ、横死せしめ候後、憤を發し復讐の事を神佛に誓ひ、數年覊旅(きりょ)に身を窶し終に上御威光を以て宿志を果し候處、寔(まこと)に抜群の孝義感心の事に候。此の度右等の御詮議之れあり、門戶に旌表仰付けられ候に付き、時に於て褒美として之れを下され候事。

  辰十月

此の年登波五十八歳にて存生に付き、勝間田氏勘場(かんば)へ呼出され、年來の憂患辛苦を親しく問はれ、前段の二事申渡されければ、登波は勿論在座の者一同感泣の袂を絞りしとかや。

此の時勝間田氏登波を詠める歌あり。

向津久(むかつく)の 紫菜(のり)()く袖は乾(かわ)く間()も 乾かぬ袖を獨りにぞ見る。

(向津久の奥の入江のさざ浪に海苔かく海士の袖は濡れつつ、とよめる人丸の歌の設案なり。香月牛山が巻換食鏡に長門向津玄とあるは此の所のを云ふ。)

楢崎景海(ならさきけいかい)此の事を聞きて、「只獨り乾かぬ袖のそれ故に幾その人か捨ほぬらすらん」と詠めり。

夫幸吉は家を出て、後に行衛知れず。登波美濃國を去りたる跡へ、数日して尋ね往きたるよし。其の事は諸國經廻り、再び其の地に歸りたるとき、初めて聞きたれども、最早尋ぬべき道なし。歸國の後、石見の津和野邊にて病死と告ぐる者あれども、是れ亦慥かならざること故、夫れのみにて打過ぎ居たるが、今茲安政四年丁巳九月、余が友畫工(がこう)松浦松洞(まつうらしようとう)角山に往き、烈婦登波を貌し、話次に、加程の貞烈の婦として夫の死所を夫れなりにして置くことは何如にと詰(なじ)りければ、登波も言下に大いに感激し、早速装を束ね、十五日の朝より家を出で、石見に往き所々探索せしが、二十六年前幸吉と云ふ者津和野にて病死せしを聞き、往き尋ぬるに、夫れは紀伊人にて而も醫書一巻を所持せし由なれば、吾が夫には非ず、前(さき)に津和野にて幸吉は病死と傳へしも、多分是れならんと思ひ、他に尋ぬべき手がかりなく大いに力を失い、所々の宮番へ若し知るる事もあらば、申送り呉れられよと頼み置き、空しく歸りしなり。此の行往來吾が家に立寄りて、因って詳かに討賊の始末を聞き、其の口説を以て原稿を改竄(かいざん)すること然り。幸吉の死所知れざるは、幾重も遺憾なれども、松洞の一言の下に感激して直ちに石見に走るは、則ち感ずべきのみ。

其の後戊午(つちのえうま、ぼご)の年、御兩國中町地方(まちぢがた)孝人奇特人其の外褒美の詮議仰付けられしとき、登波と小郡薹道(をごほりだいだう)の石(いし)、都濃郡深浦(つのぐんふかうら)の正(まさ)、三人は孝義拔群にて老極の者もあれば、若しや此の議半途中に意外の事ありてはとて、□月□日三人のみは引拔きて褒美ありしなり。時に登波は向後(これより)宮番の唱(となへ)差除かれ、平民一統の戶籍相加へらるるとの事なり。抑々登波事平民に加へらるるは頗る大議にて、初め周布政之助兼翼(すふまさのすけかねすけ)御代官たりし時、政府へ申出でたれども、政府にて先例なければ、事姑く止めになりたり。已にして、政府より郡方(こほりかた)へ、先例はなきかと問ひければ、郡芳本締(もとじめ)佐藤寬作對へて曰く、「昔秦人松を以て五大夫とす。是れ何ぞ先例に預らん。天下孝義より重きはなし。登波賤しと云へども、豈に松の比ならんや。松の功、豈に登波の孝義にしかんや。且つ宮番かかる復讐せしことも又先例なし。非常の事なれば非常の賞素(もと)より當れり」と。政府一咲(せう)して已む。獨り唐船方(とうせんかた)村道太郎清旭日く、「孝義固より重し。然れども本邦尤も名分を重んじ種族を別つ。此の議輕易にすべけんや。此の議を慎重するは、即ち孝義を重んずる所以なり」と。ここに於て、儒者近藤晋一郎芳樹(よしき)に命じて是れを議せしむ。芳樹古史を引きて例とし、此の議疑ふべからざる由を建白す。政府乃ち其の議を探り、且つ登波素性(すじやう)播磨の百姓にて、幸吉も元來奥阿武郡の百姓なれば、一旦宮番となると云へども、賤を放ちて良に還すの譯なれば疑なしと決したるたり。鳴呼、是れ登波の榮のみならず、實に政府の美事と稱すべきたり。

   附書

石の事跡は諸家の詩文歌詠の寄贈も少なからず。就中先輩楊井謙蔵の贈られし長篇の詩は五山堂詩話(さんどうしわ)(4)にも載す。又勝間田盛稔小郡(をごほり)の代官たりし時、撰ばれたる蓬生(よもぎ)の麻(あさ)とて、石の事跡を記したるものあり。又柴田鳩翁(しばたきうおう)の道話續々篇には、いと詳かに此の事を説きたれば、世の人皆しる所なり。獨り正の孝は、石よりは優るに似たれども、世の人未だ是れを傳へざれば、爰(ここ)に戊午の歲褒稱の詞を直ちに附書(つけがき)し、人をして其の大概を知らしむ。松洞畫史亦會て深浦(ふかうら)に往き、正の像を肖()せ歸り、家に蔵す。蓋し不朽を謀るなり。褒稱の詞に云はく、

 都濃郡宰判末武下村(すゑたけしもむら)庄屋堀吉郎右衞門存內深浦畔頭清木八郎右衛門組百姓

宇吉祖母  末左

右の者事當年九十六歳に罷り成り候處、兩親存生中孝養を尽し、父助八儀は八十四歳にて相果て、母は數年眼病相煩ひ終に盲人に相成り九十歲計りにて死去せしめ候處、兼て貧窮者に付き田畠等も之れなく、預り作など致し又は落葉を拾ひ、牛馬飼草を売代(うりしろ)となし、女身にて艱難辛苦を厭はず種々相働き日夜孝養にのみ心力を盡し候故、近邊の者も見兼ね少々宛の助勢致し候へども、落葉刈草を以て其の禮意に報じ、前廉(まへかど)養子之れあり候處貧窮を見限り家出せしめ、其の後も養子相勧め候へども、夫之れあり候ては却って兩親への心添疎かに相成り候に付き、兩親死去後は尼になりとも罷り成り後世を弔ひ申すべしと終に縁邊仕へず、孝心の外更に他念なく稀なる孝行の者に付き、追々御褒美遣はされ公邊御付出(つけだし)にも加り、宅前へ孝女滿佐と錄し候石建調相成り、一生獨身に罷り居り只今の宇吉は姪の子にて是れ又祖母へ懇ろに仕へ、家内睦敷く相暮し、滿佐儀多年の辛労孝女の名譽を得候。奇特の行狀稀なる高壽旁々(かたかた)委細靱負殿(5)聞し召し届けられ、甚だ以て神妙の事に依って、間近く身柄(みがら)一生眞綿をも立下され候へども、猶ほ又厚き御詮議を以て御褒美の爲め永く名字差免され候事。

   盗賊始末取徵文書

幸吉口書一通

登波口書一通

田中文後日書一通

登波申上一通

子十月登波申分一通

目明松五郎申上一通

大庄屋久保平右衛門書一通

大抵記一卷 靜間衡介記

登波申分書取覺 同人

烈婦登波碑文附紙 同人

愚問答書 同人

直橫目茂助取捌一件一卷 茂助記

 其の他地名知り難き者は國郡全圖・赤水輿地圖(せきすいよちづ)(6)長門絵図・同附錄・諸國道中袖鏡・永代節用無盡藏等に據()りて是れを決す。

 

   列婦登波の碑

烈婦名は登波、長門の國大津郡角山村(おほつぐんつのやまむら)の宮番幸吉の妻なり。父を甚兵衞と日ひ、弟を勇助と日ふ、亦幸吉と職を同じうし、豊浦(とよら)()の瀧部(たきべ)に居り。宮番の職は神祠を掃除し、兼て盗賊を緝捕(しふほ)すれども、良民の歯()する所とならず。而して三人は任侠自負し、剣客博徒往々これに過(よぎ)る。幸吉に妹松(まつ)あり、枯木龍之進の妻となる。龍は備後の××なり、自らは石見の浪人と稱し、妻を携へで諸國を往來し、撃剣を以て人に教ふ。文政辛已十月廿九日の夜、枯木夫妻は幸吉と同じく甚兵衛の家に會す。龍に先妻の一女あり、甫(はじ)めて八歲、時にこれを乞兒小市の所に匿(かく)す。龍は乃ち其の妻を幸吉に託して獨り上國に遊ばんと欲す、實は之れを去らんとするなり。其の妻と幸吉とは之れを知り、切に其の非義を責む。龍意色(いしよく)殊に惡し、坐客爲めに之れを慰め解く。而して龍は遂に松と婚を絶ちて將に去らんとす。時に夜暗く雨甚だし、甚兵之れを留め宿す。丑夜、龍起きて盡く甚兵・勇助・幸吉及び去妻を刃()りて去る。三人は即斃し、獨り幸吉のみ殊()えず。烈婦變を聞き急遽趣(おもむ)き拯(すく)うて及ばず。首(はじ)め復讐を以て請ふ。藩爲めに龍を追捕せしも獲る所なし。久しうして幸吉の創(きず)稍已()えしも、轉じて他の症となり、蓐(じょく)に在ること五年、烈婦の看護具(つぶ)さに到る。然れども烈婦心常に大讐の未だ復せざるを悼み、又夫の病(たやす)く起つべからざるを料り、間に乘じ夫に語るに志を以てす。幸吉大いに悦びて曰く、「夫()の賊は既に汝が父弟の讐たり、又我が妹の讐たり。我れ汝と久しく偕老を契る、汝が父弟は猶ほ我が父弟のごときなり。今我れ不幸にして病癈す、假令(たとひ)汝を助けて讐を復する能はずとも、寧んぞ汝が志を礙(さまた)ぐるに忍びんや。汝速かに出でて賊を探せ。我れも病少しく平(たいら)がば當に追うて汝を助くべけんのみ」と。烈婦且つ泣き且つ拝し、行装して家を出づ。時に乙酉三月なり。時に年二十七。

烈婦既に家を出で、山陰より東上す、近江・美濃を過ぎ、伊勢より紀伊を回(めぐ)り、京畿諸國、搜索遺(あま)すなし。ここに於いて、賊復た近くに在らざるを測り、中山(7)より東下し直ちに南部の恐山を極め、奥羽を探り關東を捜し、北陸を經()、東海を歴(めぐ)り、轉じて南を周(まは)り、反りて安藝を過ぐ、外に在ること蓋し十二年、辛苦具(つぶ)さに嘗め、然る後に賊の在る所を詗察(けいさつ)するを得たり。龍の女にて乞兒の所に匿せし者は、彦山の山伏が收養する所となり、既に長じて人に嫁し、龍の母は備後の三次(みよし)に居り。故を以て龍時(とき)に或はその間を往來す。烈婦既に具(つぶ)さに實を得、大いに悦びて國に歸り、事を以て官に白(まう)し、復(ふたた)び復讐を以て請ふ。未だ許さず。烈婦家を出でて後一年、幸吉亦病を力めて出でて賊を探りしが、其の終る所を知るものなし。烈婦痛哭して志を秉()ること益々(ますます)(かた)く、急ぎ彦山に如()きて賊を撃たんと欲す。烈婦の東海を歷しとき、獨り常陸に留ること三年、援を求めて龜松を得たり。龜松は筑波郡若柴驛の民なり、固より壯健義を好む、烈婦の志を憐み、復讐を助くるを許す。ここに至り首(しゅ)として其の謀に贊成し、因って與(とも)に下關に至りしも、代官所の追止する所となれり。藩乃ち追捕を彦山に遺し、賊狀を探問せしむ。天保辛丑(8)三月、賊捕へられて自殺す。因って瀧部村に梟首す。烈婦走りて首の下に就き、ヒ首(ひしゅ)を之れに擬し、睨み且つ罵りて曰く、「汝豈に我れを記するや、吾れは甚兵衛の女(むすめ)、勇助の姉、而して幸吉の妻なり。汝吾が父と吾が弟とを殺し、吾が夫を傷け、又吾が夫の妹を殺す。吾れ爲めに讐を報いんと欲し、五畿七道、探討粗()ぼ盡す。而して一撃を汝が身に逞うする能はざりしは、是れ吾が憾(うら)みなり。然れども天道國恩は遂に汝をここに致すを得たり。汝其れ其の罪を知れ。汝豈に我れを記するや」と。時に本郡の代官張君至增(ちやうくんしぞう)(9)之れを義とし、建白して一口米を賜ひ其の身を終らしめんとす。安政丙辰、藩命、孝義を旌表す。代官勝間田君(かつまだくん)盛稔烈婦を建白して、其の門戶に旌表し、特に米一苞を褒賜す。明年、余君(10)に代り來つて此の郡を宰す。謂(おも)へらく、幸吉は身先きに歿すと雖も、而も志は實に其の妻と同じければ、則ち夫妻は宜しく永く其の宮番の職を免じて、良民に歯することを得しむべしと。藩議審重(しんちょう)、月日(11)(ゆる)すを得たり。余乃ち因って郡を巡(めぐ)りて烈婦を引見す。烈婦時に五十九歳、身體健全にして容貌未だ衰へず、其れをして其の復讐始末を語らしむるに、感慨悲惋(かんがいひわん)、聲涙俱(せいるいとも)に下る。余既に其の志を悲しみ、又其の事の久しくして或は泯滅(びんめつ)せんを恐る。ここに於いて碑を建てて文を勒し、其の跡を紀し、其の烈を表し、之れに重ねるに銘を以てす。銘に曰ふ。

 

混々原泉、于海朝宗。洋々大魚、龍門篇龍。懿矣烈婦、習坎惟通。身雖賤兮、門閭表庸。

(こんこんたるげんせん、うみにちょうそうし。ようようたるたいぎょ、りゅうもんにりゅうとなる。いなるかなれっぷ、しゅうかんこれつうず。みいやしといえども、もんりょいさををひょうす)

 

右擬稿粗ぼ成る。而るに宮番の良民に歯せしは、藩に故事なし。ここを以て廳議遷延し、建碑の事も亦姑(しばら)く停止す。然れども烈婦の事跡はここに至りて其の粗(あらまし)を得たり。後に作る者あらば、將た取る所あらん。丁巳七月既望(きぼう)、識す。

戌午の冬、登波特に良民に齒す。而して公輔(こうすけ)は則ち去りて他の職となり、建碑の事遂に復た議せずと云ふ。重ねて識す。巳未五月。

 

(1)正しくは高津である

(2)石廊崎にある

(3)先大津の目明

(4)高松藩詩人菊池桐孫、号は五山の著、十三巻

(5)浦鞘負、老臣〔関伝〕

(6)水戸の地理学者長久保赤水の作れる地図

(7)中仙道に同じ

(8)十二年

(9)張は姓、至増は名

(10)周布公輔をさす

(11)未だ藩許の前にその許可を予想の下に書いたので建碑の時に某月某日とするつもりであったのであらう

令和元年(第42回)隅田川花火大会 体験記1

2019年7月27日(土)、隅田川花火大会を初めて間近で観覧した。そこで体験したことを、不定期で何回かに分けて書きのこしておきたい。歩きながら感じたこと、考えたことがあり、昨日今日のうちに記憶が薄れる前に記述したいので、メモの体裁をとる。

17時40分、銀座線浅草駅に到着し、改札を抜け地上へ出た。階段の最後のところで白いシートでアーチが作られ、観客の移動が制限されていた。4番出口から出て、隅田川沿いに南のほうへ誘導された。右折、右折して引き返す。吾妻橋(あづまばし)の交差点はすでに警察官が交通規制を始めていた。

18時00分、江戸通りを北へ少し進んでから、川の方へ近づいた。老若男女、大人子ども、日本人アジア人欧米人中東人、さまざま。警察官が少なく、誘導スタッフ、地元ヘルプスタッフの配置が多い。通路に待機列ができていた。道の半分は通路で、もう半分はシートに座った観覧客。しばらくゆっくりと進み、東武伊勢崎線の高架下を通り過ぎ、言問橋(ことといばし)を過ぎたところで、再び一般道に出る。途中、板で囲われた約1.5メートル四方のスペースがあり、それはゴミ捨て場であった。

18時35分、言問橋交差点はかなり人々が入り乱れていた。案内図の看板を確認する。そこから北は野球場などがあり、有料観覧席になっているようだった。ここで、19時を過ぎると橋の通行規制が始まり、吾妻橋は東方向のみ、言問橋は西方向のみに通行制限となることを知った。江戸通りを南下し、吾妻橋に向かう。

花火の開始時刻は第1会場(北側、言問橋(ことといばし)の上流)が19時00分、第2会場(南側、駒形橋(こまがたばし)と厩橋(うまやばし)のあいだ)が19時30分であった。観客は江戸通りを北へ、つまり第1会場に向かっていて、流れができていた。歩行者天国となった江戸通りには屋台があり、流れと垂直に列ができていた。松屋浅草前の交差点へ戻り、吾妻橋へ向かおうとした。

18時56分、警察官の規制により吾妻橋方向へは向かえず、指示によると、迂回して待機列の最後尾に向かえとのことで、左折、左折して観音通りから雷門通りに出たが、吾妻橋から雷門通りへ続く道は、完全に観覧客で埋め尽くされ、待機列ができていた。そこに立っていた警察官の指示によると、観音通りをも引き返し、(おそらくつくばエクスプレスの浅草駅まで)大回りして最後尾につけとのことであった。

19時05分、江戸通りを北上し、第1会場方面へ向かう。建物の隙間から打ちあがった花火が見えた。人の数は多いものの、まだゆったりとしたペースで流れは進んでいた。

19時11分、言問橋交差点を通過。

19時16分、黄色の地に、赤色の文字で「立ち止まらないで」と書かれたブルーシートを見たが、頭一つ分だけ持ち上げた位置にあるだけだったので、近くの人にしか見えないようであった。警察官のアナウンスでも「今年は歩きながらの観覧になります」と言っていたので、歩行者の誘導に関して何かしらの試みがなされたと思われる。標示や誘導の他にも多くの改善すべき点が見られた。

19時30分、第1会場近傍で客の数がピークを打ったように感じた。同時に、流れは完全にとまった。人々は打ちあがる花火を眺め、スマートフォンで撮影した。付近のマンションに住む人々は、ベランダから余裕をもって眺めていた。大輪の花は美しかった。そして何より、ここでしか感じられないもの、会場に近づいたからこそ聞こえる、花火の打ち上げ音。ドンッ!!ではないことに注意されたい。筒から火薬玉が射出されたであろう、ドンッ!!とシュボッ!!が重なったようなシュドンッ!!!と形容したらよいであろうか、そのような音が炸裂していた。しかも、その音が連続的に響いたときの、シュドンッ!シュドンッ!シュドンッ!あるいは、シュボンッ!シュボンッ!シュボンッ!という振動も体感することができた。1つのハイライトであった。

19時40分、逆行する客がいたり、緊急車両(パトカー)が南下したりと遅々として流れは進まず。途中、おそらく台東リバーサイドスポーツセンターのあたりだろうか、救急隊の隊員が6名ほど待機していた。その後おそらく野球場から桜橋中学校へ向かうあたりのところに流れを堰き止めた原因があり、それを過ぎると徐々に流れはスムーズになった。同時に、隅田川沿いの東京都道314号言問大谷田線は地元の住人ふくめ、道の半分を座って観覧する客の流れが続いていた。途中、後ろを振り返り花火を見上げつつ白髭橋(しらひげばし)へ向かう。

20時00分、白髭橋へ着く。松屋付近にいたころ、警察官から「白髭橋まで一方通行で進み、ながれを止めないでください」とアナウンスされていたが、あまり効果はなかったようだ。さらに、第1会場から白髭橋までの距離がけっこうあったことは明記したい。約1キロメートルである。

20時05分、白髭橋を越える。橋は改修中のようであった。歩行者用通路は人がぎりぎり肩をぶつけずに行き来できるくらいの幅で、止まって写真撮影する人々がいると流れが堰き止められていた。

20時10分、首都高を南下。堤通(つつみどおり)公園に差し掛かったところで左折し、すぐに右折。150メートルほど進み、再び公園へ向かうが一方通行とのことで入れず引き返し、墨堤(ぼくてい)通りへ。

20時20分、墨堤通りを南下し、向島あたりから見番(けんばん)通りを南下する。隅田川の東側でも、道の半分は観覧客で満たされていた。建物の隙間から花火を見ながら歩き進む。

20時25分、いよいよクライマックスが近づき、観覧客の歓声も大きくなっていく。おそらく私が最後の花火を見たのは三囲(みめぐり)神社のあたりであったろうと思われる。

20時35分、言問橋東、水戸街道に出た。警察官から交通規制が解除される旨のアナウンスがあり、浅草方面へ向かう人は待機列に並べとのことであった。おそらくある程度の人数がはけたところで、橋の規制が解除されたと思われる。

21時00分、浅草寺に少し立ち寄り、仲見世通りのわき道を抜けた。セブンイレブンでいなり寿司と水を買い、一息ついた。激流に揉まれて疲弊していたがもう少し歩くことにした。上野へ行くことも考えたが、蔵前に向かうことにした。

Gとの闘い ep.1

それは突然あらわれた。

私は、帰宅後リビングでくつろごうとして、部屋のドアを開けた。ふと下方に目を向けると、床に置きはなしにしていた衣服の隙間から、それがおもむろに姿を見せた。その瞬間はさほどの俊敏さは見せず、すすっ、すすっといった具合で、机の下へとスムーズに抜けていった。約3cm大のゴキブリだった。私はいったんため息をつき、どう対応するかを試案した。ゴキジェットは以前購入した分を残していたが、床にスプレー跡がついてしまうのを避けるため、とりあえずは別の方法を試すことにした。と言ってもガムテープを机の周囲に道をふさぐように配置しただけなのだが。いったん様子を見ようと別の作業をしていたところ、10分ほどして設置したガムテープの1つにGは引っかかっていた。

カサカサと身を動かしているものの、脚や腹の一部がくっついて離れないようだった。慎重を期すため、さらにガムテープをかぶせようとしたが、触れた瞬間にとびだしそうで、なかなか手元が定まらない。1枚目は的外れな方向へ行き、2枚目はなるべく近くから放り投げるも、ボディには当たらず、そうするうちにGは自らの脚を犠牲にしながらガムテープから脱出しかけていた。次の瞬間、足先だけ残したそれは、壁をつたって隣の部屋へ移動。すぐさま追いかけたが、物の陰から陰へと姿をくらまされ、視界にとらえることができない。かと思えば、いきなり足もとをよぎり、私は驚嘆とともに身を引かざるを得なくなった。

ちょうどそのとき、私が身を引いて背の後ろ側によろめいた際、高さ180cmほどの木製のポールハンガーに体がぶつかった。体重がのってしまい、若干傾いた。ポールは絶妙なバランスでシーソーのような動きを開始した。そうして、ポールの脚の部分、ちょうど床に面して十字クロスの形をした脚が少し浮き上がった瞬間、床と脚の隙間にGが歩を進めていたのだった。私は、体制を戻すのに意識が向かっており、ポールハンガーの往復運動には注意が向いていなかったが、ポールハンガーが復元を終えて安定化しようとする、まさにその瞬間にGが十字クロスの下敷きになるのを見た。

あっけない終わりだった。しばらく安堵感のなかで、戦闘後の余韻に浸っていた。ガムテープで仕留めきれなかったのは、テープが手に引っ付いてコントロールが下手すぎたためだし、そもそも被せる方法以外のやり方があったかもしれない。一度取り逃がしたにもかかわらず、まだ近くにいたのは不幸中の幸いだった。そのような反省をしつつ、このあと死に体になったGをどう処置しようかとポールの上部に手をかけた。ポールを傾けて脚を浮かせ、Gの姿がどのように変わってしまったかを確認しようと視線を向けた。

ところが。

かいま見えた後ろ脚は、勢いよくバタバタと動いていた。腹部から何か少し白い液が出ているようにも見えた。私は、そこで一瞬思考停止になり、手にかけていたポールをさらに傾かせてしまった。自らを圧迫していた重しを解かれたGは、ジタバタした動きをゆるめ、解放と自由を確認するかのようにその場で静止した。そして次の瞬間には洗濯機の裏の方へと姿を消したのだった。

GoogleのOCRに驚いた

吉田松陰全集の現代語訳を進めるにあたって、参照できるテキストのうち、最も入手しやすいものが国立国会図書館デジタルアーカイブだった。はじめのうちは、テキストを自らWordに打ち込み、分からない漢字や単語を一つ一つ調べながら原文テキストの電子化を完成させ、その後、現代語訳に着手するようにしていた。じつは原文入力を始める前から、この作業が手間になることは分かっていたが、最初だけでも自分で入力したいという思いがあり続けていた。その思いが満たされ(比較的すぐに)、電子化で便利なツールが無いか探すことにした。

調べてみると、GoogleOCR(Optical Character Recognition 光学的文字認識)のアプリを提供していることを知った。さらに、フリーのオンラインOCRサービス(https://www.onlineocr.net/)もあって、両者を比較してみることにした。2018年の4月頃に試したときには、Googleのほうは、抽出された文字が誤っていることが多く、原文の縦の文章がふりがなの影響を受けてか、入れ替わったりばらばらになっている場合がよく見られた。それに対し、オンラインOCRは、ふりがなや注(文章中に小さい文字で2段組で書かれる)の部分で、文章がずれることがあったが、文字の誤りはGoogleよりも少なかった。便利さを感じたので、電子化にオンラインOCRを使うことにした。画像を切り抜き、ファイルをインポートしてOCRにかけ、出力ファイルからテキストを抜き出し修正を加えて、原文テキストを作成していった。『福堂策』の記事はそうやって出来上がった。

ところが、先日(2019年7月1日)久しぶりにGoogleドライブに画像をアップロードし、「アプリで開く」からGoogleドキュメントを選択して開いてみたところ、生成されたテキストの再現具合が非常に高くなっているように感じられた。ふりがなの部分で文章がずれてはいるが、理由は不明だがふりがなだけが一か所にまとめられているので、文章をつなぎ合わせるのに差し障りはなかった。漢字については、旧漢字をそのまま表示していくれていたり、場合によっては新字に変換してくれているところもあった。漢字の再現精度の高さにはとても驚いた。念の為、同じ画像をオンラインOCRにもインポートして確認してみたが、どうやら再現性はGoogle OCRのほうが高そうだ。自分で電子化を進めざるを得ない現状のなかでは、非常に助かるツールなのでしばらく手放せそうにはないし、さらに精度が上がっていくことを期待したい。