吉田松陰全集 第1巻 (岩波書店, 1940) 刊行の辞

刊行の辞

 吉田松陰先生は時代を超えていつまでも皇国臣民の行くべき道を指示する英霊的存在である。其の精神気魄は継ぎて起る後輩の血脈に鼓動して永劫に死せず、其の思想信念は連なる者の胸奥に息吹して万世に滅びない。当時維新回天の偉業を翼賛し奉った防長の才俊が、その膝下に学んで躍々たる生命力を育まれた如く、今日新しき世界史の展開を完遂すべき一億臣民は、その精神に参入して逞しき雄魂を涵養しなければならぬ。この意味に於いて、先生の遺著はまさに国民の書、特に青年の書たるべきものである。先に本会が吉田松陰全集を公刊するや、十巻六千余頁の厖大且つ相当難解の書籍たるにも拘わらず、絶大なる賛辞と歓迎とを蒙り、たちまちにして肆上にその陰を没するに至ったことは、以て先生の偉大さと江湖鑽仰の熾烈さとを証するものというべく、刊行の事にあたった本会としても誠に欣快に堪えざる所である。

 然るに前の全集は其の大部分が漢文であり、文中又漢土の典據故事を引用せる語句多きが為めに、一般人士としては訓読の困難を歎ずることが少なくない。かくては折角の金玉の大文字も、一部の学者有識者に独占せられて、其の内に含蓄抱擁する燦然たる光鋩をあまねく後世に発揚するに由なく、旧全集の荷へる真価と意義とは自ら別として、またいささかうらみなきを得ざる次第である。

 本会はここに鑑みる所あり、定本としての旧全集と並行して、別に普及版全集の発刊を企図し、前の全集編纂委員廣瀬・玖村両先生に重ねて之が編纂を委嘱し、更に西川先生の協力を謂うて、共に其の快諾を得たのである。乃ち本全集に於ては、漢文は凡て国文に書流し、和文も読み易きに従って送仮名、句読点等を加へ、必要の箇所には簡明なる註解を施す等、訓読の平易化を図り、以て内容形式共に国民の書としての普及版吉田松陰全集全十二巻の完成をみるに至った。其の出版発売に関する一切の事務は前回と同じく岩波書店の奉仕的尽力によるものである。

 斯くて松陰先生は其の死せず滅びざる永遠思想精神を我が国民の前にあまねく露呈したのである。時あたかも皇紀二千六百年、肇国の大理想を高く掲げて、我が国は今曠古(こうこ)の時艱(じかん)と戦ひつつある。本全集の完成が図らずも此の意義深き時期に際会したことは、果して単なる偶然であろうか、抑々先生在天の威霊の然らしむる所か、吾等ひとしほの感激を禁じ得ざる所以である。

昭和十五年一月
山口県教育会