吉田松陰全集 第1巻 (岩波書店, 1940) 猛省録

猛省録

従来惟(た)だ見る、何渉(1)学士、案上惟だ一書を置きてこれを読み、首(はじめ)より尾(おわり)に至るまで錯字を正校し、未だ巻を終えざれば誓って他書を読まず。これ学者の難しとする所なり。

范仲淹(はんちゅうえん)(2)、南部に之(ゆ)き学舎に入り、一室を掃いて昼夜講誦す。その起居飲食、人の堪えざる所、而も自ら刻(つと)めて益々苦しむ。居ること五年、大いに六経(『詩』・『書』・『礼』・『楽』・『易』・『春秋』)の旨に通ず。

洵(3)、少年にして学ばず、生れて二十五歳(4)、始めて書を読むを知り、其の後困(くる)しむこと益々甚だし。然る後古人の文を取りて之れを読み、始めて其の言を出し意を用うるもの己れと大いに異なるを覚(さと)る。時に復た内に顧みて其の才を思えば、則(すなわ)ち叉夫(か)の遂に是(ここ)に止まるのみならざるものに似たり。是れに由(よ)り尽(ことごと)く其の当時為(つく)る所の文数百篇を焼き、論語孟子・韓子(5)及び其の他の聖人賢人の文を取り、而して兀然端座(こつぜんたんざ)、終日以て之れを読むこと七八年なり。

胡瑗(こえん)(6)、布衣(ほい)の時、孫明復・石守道と同じく書を泰山に読む。攻苦淡を食い、終夜寝ねず。一座十年にして帰らず。家問(7)を得て、上に平安の二字あれば、即ち之れを澗中(かんちゅう)に投じ、復た展読せず。

范仲淹、南部の学舎に処(お)り、昼夜苦学して未だ嘗(かつ)て衣を解きて寝に就かず。夜或は昏怠すれば、輙(すなわ)ち、水を以て面に沃(そそ)ぐ。

以西把尼亜(イスパニヤ)の古賢、多斯達篤(8)と曰うもの書を著わすこと尤も多し。寿(とし)僅かに五旬有二。著わす所の書籍、始め生れてより卒するに至るまでに就きて之れを計るに、一日ごとに当(まさ)に三十六章を得べし。毎章二千余言、尽く奥理に属す。後人彼れの像を絵にし、両手に各々一筆を持たしむ。其の勤敏を章(あら)わすなり。

王荊公(9)、初めて及第して僉判(せんはん)となる。書を読むごとに旦(あした)に達するに至り、略(ほ)ぼ仮寐(かりね、うたたね)す。日已(すで)に高く急に府に上り、多くは盥漱(かんそう)せず。

呉奎(ごけい)(10)、始め小吏たり。昼は則(すなわ)ち公事を治め、夜は輙(すなわ)ち書を読み、寝ねざること二十余年。

陽城(11)、性学を好むも、貧にして書を得る能(あた)わず。乃(すなわ)ち求めて集賢(12)の写書吏となり、官書を窃(ぬす)みて、之れを読み、昼夜出でざること六年、乃ち通ぜざる所なし。

司馬公(13)幼時、記誦人如かざるを患う。群居講習し、衆兄弟既に誦を成し遊息するに、独り帷を下して編を絶ち、能く倍誦(14)するに迨(およ)んで乃ち止む。力を用うること多きものは功を収むること遠く、其の精誦する所は乃ち終身忘れざるなり。公嘗て言えらく、書は誦を成さざるべからず。或は馬上に在り、或は中夜寝られざる時、其の文を詠じ、其の義を思えば得る所多しと。

董仲舒(とうちゅうじょ)(15)、春秋を治むるを以て孝景の時博士となる。帷を下して講誦し、或は其の面を見るなし。蓋し舎園を観ざること三年、其の精なること此くの如し。

柳子厚(りゅうしこう)(16)、永州の司馬に貶(へん)せらる。居閑にして益々自ら刻苦し、記覧を務め、詞章を爲(つく)り、汎濫停蓄(はんらんていちく)、深博にして涯涘(がいし)なきを為す、而して自ら山水の間に肆(ほしいまま)にす。

太孺人(17)、中歳にして寡居し、日夜一子の建立の時あるをまつ、厳として愉色なし。即(も)し従遊の士しばしば来り、殿卿また往々牘(かきもの)を輟(や)めて之れを迎え、終日帷を下して誦するを得ざるときは、太孺人始めは猶お客に対するがごとく、詳(つまびら)かに殿卿を呵責することを為し、之れを久しうして従遊の士復た謝絶せざるときは、太孺人則ち扃鑰(けいやく)もて門戸に持(じ)し、気を盛んにし辞(ことば)を??まし、鞅々(おうおう)として諸子を去らしむ。故を以て殿卿択交なし。許邦才

天下の事、小大となく皆上(18)に決す。上、衡石を以て書を量るに至る。日夜呈(19)あり、呈に中(あた)らざれば休息するを得ず。秦始皇

毎日定課あり。鶏鳴して起きてより終日写閲して小齋を離れず、倦めば則ち枕に就く。既にさむれば即ち興(お)き、肯(あ)えて枕上に偃仰(えんぎょう)せず。毎夜必ず行燈を床側に置き、自ら提げて案に就く。陳瓘(ちんかん)(20)

匡衡(きょうこう)(21)、学を好めども家貧しければ、庸作(ようさく)して以て資用に供す。尤も精力人に過絶す。衡、学を勤むるに燭(ともしび)なし。隣舎に燭あれども逮(およ)ばず。衡、壁を穿ちその光を引きて之れを読む。

邑(オウ)の大姓文不識(22)は家富みて書多きに名あり。衡乃ち其れがために客作して償を求めず、書を得て遍く之れを読まんことを願う。遂に大学を成す。

孫敬(23)、常に戸を閉じて書を読む。睡(まどろ)めば則ち縄を以て頸に繋げ、之れを梁上に懸く。

愈(24)の為る所、自ら其の至ること猶お未だしきを知らざるなり。然りと雖も之れを学ぶこと二十余年。始めは三代・両漢の書に非ざれば敢えて観ず、聖人の志に非ざれば敢えて存せず、処(お)るに忘するが如く、行くに遺するが若(ごと)く、儼乎(がんこ)として其れ思うが若く、茫乎(ぼうこ)として其れ迷うが若し。

秦王(25)、館を開き、以て文学の士を延(ひ)く。

杜如晦(とじょかい)
房玄齢(ぼうげんれい)
虞世南(ぐせいなん)
褚亮(ちょりょう)
姚思廉(ようしれん)
李玄道(りげんどう)
蔡允恭(さいいんきょう)
薛元敬(せつげんけい)
顔相時(がんそうじ)
蘇勗(そきょく)
于志寧(うしねい)
蘇世長(そせいちょう)
薛収(せつしゅう)
李守素(りしゅそ)
陸徳明(りくとくめい)
孔頴達(こうえいたつ)
蓋文達(がいぶんたつ)
許敬宗(きょけいそう)

を文学館の学士と為す。分ちて三番と為し、更日直宿せしむ。王、暇日には(すなわち)館中に至りて文籍を討論し、或は夜分に至る。閻立本をして像を図せしめ、褚亮をして賛を為(つく)らしむ。十八学士と号す。唐太宗

今年四月、余、江戸より帰り、一室に屏処(へいしょ)す。日々古人の書を取りて之れを読み、始めて古人の深厚該博、大いに己れに異なるを知る。徐(しづ)かに其の為す所を観、其の由る所を考うるに、唯だ勤むるのみ。因って一冊子を置き、書を閲し古人の学に勤むる者に遇うごとに、必ず之れを摘録し、且つ名づくるに猛省を以てす。名づくる所以はすなわち録する所以なり。近日、友人井上壮太(26)、剣を阪東に学ばんとす。乃ち一冊を改写してはなむけと為す。蓋し其の亦察を此に致さんことを欲すればなり。若し録する所皆屏処読書者の事、三千里外に往来して剣を学ぶものと、初めより交渉なしと曰わば、吾れ則ち曰わん、書や剣や階のみ府のみ、階は堂に非ず、而して府は財に非ず。士の士たる所以は書に非ざるなり、剣に非ざるなり。然り而して業博(ひろ)く惟だ勤むるのみと。録するもの僅かに二十条、未だ敢えて博考窮捜せず。然れども熟読深思せば、亦所謂(いわゆる)扑(ぼく)(27)の教刑たるよりも厳なるものあらん。

壬子九年(?)

松陰蓬頭子識す

(1)字は済川、宋の南?の人。六経百家より山経地
(2)字は希文、宋の呉県の人。兌
(3)字は明允、老泉と号す。
(4)一説に二十七歳という
(5)韓退之
(6)字は翼之、宋の海陵の人。
(7)家より来る手紙。平安のことを知ればあとは用なしとして読まざりしなり
(8)不明
(9)王安石
(10)字は長文、宋の北海の人。
(11)唐の徳宗の朝に諌議大夫となり韓愈の争臣論の矢面に立ちしはこの人なり。
(12)集賢殿書院、唐の玄宗開元十三年、これを長安及び洛陽に置く
(13)温公、朱の仁宗・英宗・神宗・哲宗に歴任す。哲宗の時相となる
(14)暗誦
(15)漢の学者、武帝の時賢良策を以て江都の相たり、後に膠西王の相たり
(16)唐の柳宗元、子厚は字なり。
(17)許邦才の母なり。邦才は明の?城の人、字は殿卿
(18)始皇をさす
(19)程に同じ、予定の分量の意
(20)宋の学者、紹聖の始め太学博士たり、後に諌官となり蔡京の用うべからざるを極言す。
(21)漢の東海の人、人に雇われて苦学す。
(22)文は姓、不識は名。
(23)漢の信都の人、字は文賓。
(24)韓退之
(25)唐の太宗、初め秦王たり
(26)長藩士井上興(与)四郎の嫡男
(27)扑は打つこと

 

<現代語訳>

これまでのことを見てみると、何渉学士、机の上にただ一書を置いて読み、首(はじめ)より尾(おわり)に至るまで誤植を校正し、巻を読み終わらないうちは誓って他書を読まなかった。これは学ぶ者の難しいとする所なり。

范仲淹(はんちゅうえん)、南部に之(ゆ)き学舎に入り、部屋を掃除し、何時でも声を出して読書をする。その日常生活や飲食、人が堪えられない所も、自ら刻(つと)めて益々苦しむ。居ること五年、大いに六経(『詩』・『書』・『礼』・『楽』・『易』・『春秋』)の主旨を理解する。

洵、少年にして学ばず、生れて二十五歳、始めて書を読むことを知り、其の後困(くる)しむこと益々甚だし。然る後古人の文を取って読み、始めてその言葉の表現や意味の使い方が己れと大いに異なるを覚(さと)る。時に復た自分を顧みてその才を思えば、ここで止まっているわけにはいかないと考えたようだ。これにより、ことごとくその当時つくった文数百篇を焼き、論語孟子・韓子及び其の他の聖人賢人の文を取り、そうして姿勢を保ち、きちんと座り、終日以て之れを読むこと七八年なり。

胡瑗(こえん)、布衣(ほい)の時、孫明復・石守道と同じく書を泰山で読む。苦しい境遇ながら攻苦淡を食い、終夜寝なかった。一座十年にして帰らず。家からの手紙を受け取っても、上に平安の二字が書いてあれば、この手紙を谷間に投げ入れて、再び拡げて読むことはしなかった。

范仲淹、南部の学舎に処(お)り、昼夜苦学して未だ嘗(かつ)て衣を解きて寝に就かず。夜に眠くなり気が緩むことがあれば、水を以て面に沃(そそ)ぐ。

イスパニヤの古賢、多斯達篤と曰うもの書を著わすことがとても多かった。寿(とし)僅かに五十二歳。著わす所の書籍、生れてから死ぬまでの間で計算すると、一日ごとにちょうど三十六章となる。毎章二千余言、尽く奥理に属す。後人彼れの像を絵にし、両手に各々一筆を持たしむ。精を出して仕事に取り組み、きびきびしている姿を章(あら)わすなり。

王荊公、初めて及第して僉判(せんはん)(職業のひとつ?)となる。書を読むごとに朝に達するに至り、略(ほ)ぼ仮寐(かりね、うたたね)す。日がすでに高くなってから急いで府(役所?)に上り、多くの場合は手洗いや、身を清めることはしなかった。

呉奎(ごけい)、始め小吏たり。昼は則(すなわ)ち公事を治め、夜は輙(すなわ)ち書を読み、寝ねざること二十余年。

陽城、性学を好むも、貧しかったので書を得ることができなかった。乃(すなわ)ち求めて集賢の写書吏となり、官書を窃(ぬす)みて、之れを読み、昼夜出でざること六年、すなわち理解できないことはなくなった。

司馬公幼時、暗記ができないことを心配していた。群居講習し、衆兄弟は既に暗記が終わりゆっくりと静養するに、独り帷を下して編を絶ち、よく暗誦するようになってこの心配事はなくなった。力を用うること多きものは功を収むること遠く、其の精誦する所は乃ち終身忘れざるなり。司馬公はかつて言えらく、読書は暗記するまでやるべきである。馬上にいる時や、あるいは夜寝られない時、其の文を詠じ、其の義を思えば得る所多しと。

董仲舒(とうちゅうじょ)、春秋を治むるを以て孝景の時博士となる。帷を下して講誦し、或は其の面を見るなし。蓋し舎園を観ざること三年、其の精なること此くの如し。

柳子厚、永州の司馬にけなされる。居閑にして益々自ら刻苦し、記覧を務め、詞章を爲(つく)り、深く広い学識は限界を知らないまでになり、而して自ら山水の間にほしいままにす。

太孺人(=殿卿の母)、中歳にして一人身で暮らし、日夜一人息子の建立の時あるをまつ、厳として愉快そうな顔色なし。もし人につきしたがって旅行する者がしばしば来たときには、殿卿は往々にして牘(かきもの)を輟(や)めて之れを迎えたが、終日帷を下して暗誦しなければならない場合は、太孺人は猶お客に対するがごとく、つまびらかに殿卿を呵責し、長い時間従遊の訪問謝絶しないときは、太孺人はかんぬきを門戸に持っていき、血気盛んに言葉を吐いて、不満な様子で諸子を帰らせた。そのために殿卿は交わる人がいなかった。許邦才

天下の事、大から小まですべて始皇帝が決めた。始皇帝は、衡石(秤、天秤)を以て書を量るに至る。その量が日夜となる程あり、その程にあたらざれば休息するを得ず。秦始皇

毎日定課あり。鶏が鳴いて起きてから終日写閲して書斎を離れず、行き詰れば枕に就く。目が覚めれば起き、少しも寝たり起きたりはしない。毎夜必ず行燈を床側に置き、自ら提げて案に就く。陳カン(ちんかん)

匡衡(きょうこう)、学を好んでいたが家は貧しく、日々働いて生活を支えていた。もっともその精力は人が及ばないほどであった。衡、学を勤めるに燭(ともしび)なし。隣の家には燭があるけれども届かなかった。衡、壁を穿ちてその光を引きて之れを読む。

邑(オウ、みやこ、むら、郷里)の権威者であった文不識は家富みて書多き名家であった。衡はその書物のために使用人となり報酬を求めず、書を得て遍く之れを読まんことを願った。遂に大学を成す。

孫敬、常に戸を閉じて書を読む。睡(まどろ)めば則ち縄を以て頸に繋げ、之れを梁上に懸く。

愈の為る所、自ら其の至ること猶おまだその時期ではないということを知らなかった。然りと雖も之れを学ぶこと二十余年。始めは三代・両漢の書でなければ少しも見ず、聖人の志でなければ少しも思わず、家にいることも忘れ、出かけることも忘れ、儼乎(がんこ)としていかめしく思うが若く、茫然として迷うが若し。

秦王、館を開き、以て文学の士を招き入れた。

杜如晦(とじょかい)
房玄齢(ぼうげんれい)
虞世南(ぐせいなん)
褚亮(ちょりょう)
姚思廉(ようしれん)
李玄道(りげんどう)

蔡允恭(さいいんきょう)
薛元敬(せつげんけい)
顔相時(がんそうじ)
蘇勗(そきょく)
于志寧(うしねい)
蘇世長(そせいちょう)

薛収(せつしゅう)
李守素(りしゅそ)
陸徳明(りくとくめい)
孔頴達(こうえいたつ)
蓋文達(がいぶんたつ)
許敬宗(きょけいそう)

を文学館の学士と為す。分けて三番と為し、更日直宿させる。王、時間があるときには館中に至りて文籍を討論し、夜分に至ることもある。閻立本をして像をつくらせて、褚亮をして賛を為(つく)らしむ。十八学士と号す。唐太宗

今年四月、余、江戸より帰って、一室の隅に隠れていた。日々古人の書を取って読み、始めて古人の深厚該博(深く広い見識)が、大いに自分と異なることを知った。落ち着いて古人の為した所を見て、その理由を考えるに、ただ勤めるのみ。よって一冊子を置き、古人の書を読んでその学に勤める者に遇うごとに、必ず記録し、かつ名づけるときに猛省をもってやることにした。名づける理由はすなわち記録する理由なり。近日、友人井上壮太(井上与四郎の嫡男)が剣を阪東に学ぼうとしていた。なので一冊を改写して、はなむけとした。もしかしたらここに書いたことに思いを致してくれると願ってのことだ。もし記録したことについて、家に閉じこもり読書するものと、遠くの地まで往来して剣を学ぶものとが、初めから交渉なしと言うのならば、僕はこう言おう、書や剣やと言うのは梯子のみ蔵のみと言っているようなものだ、梯子は建物に非ず、そして蔵は財に非ず。士の士たる所以は書に非ざるなり、剣に非ざるなり。そうであるから、業博(ひろ)く惟だ勤むるのみと。記録したものは僅かに二十条、まだ少しも博く考えて限界まで捜し求めたとは言えない。然れども熟読深思すれば、いわゆる叩きの刑よりも厳しいものがあるのではないか。

1852年9月

松陰蓬頭子識す