吉田松陰全集 第2巻 (岩波書店, 1940) 江戸獄記

江戸獄記

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048648 P.286(コマ番号148/234)

 

毎日、朝六ツ過ぎ戸前(とまえ)を明く。

戸前は出入の口半間なり。二寸五分角程の格子戸あり。外に開く。夜間は内より板戸を立て外にて錠を卸し、叉格子戸へ錠を卸す、二重錠なり。此に戸前を明くと云ふは内の板戸をはずして内へ入るるなり。○此の時は御立合・鍵役、当番所迄来る。当番三四人来り錠を開くなり。凡べて食事湯水等にて戸前を開く時も是れに準ず。

此の時、粥・ネバ・茶・煎湯二種を給す。

粥は願物(ねがいもの)と云う。是れ総人数へ給するに非ず、病人の員数を照し願に因りて是れを給す。故に是れを願物と云ふなり。ネバとは飯汁なり。飯はザル飯なるを以て其の汁を給す。是れ飲料ともなすべく、叉衣物を洗濯するに用ふべし。

茶は揚屋(1)へ給するのみ、他獄へは給せず。

煎湯二種、一種は病人の症に対し各々に給す。一種は御並と称す。是れ獄中陰湿の地にて、疫癘湿瘡(えきらいしっそう)の気流行する故、用心薬の為めに給するなり。煎湯を給する時、御立合・書役(かきやく)、来り監す。以上皆、鍵役は当番所迄来るのみなり。

五ツ時、飯・味噌汁・飲湯を給す。此の時、御立合・鍵役、各々一人来り監す。

飯は一人に、モツソ(物相)一盃なり。モツソとは竹柄杓の柄なきものなり。揚屋中六人、牢中十二人の役人(2)あり、故に其の役人に当り、高く盛りたるを給す。其の他は平盛なり。

飲湯は大田子一盃なり。

御立合と云うは八町堀同心なり。南北町奉行より万事監察の為めに一人ずつ出役せしめ宿直するなり。鍵役は牢屋同心なり。即ち囚獄石出帯刀(しゅうごくいしでたてわき)(3)の支配する所。同心、初めは当番或は書役等を勤む、年功を積みて鍵役となる、獄吏中の重役なり。余在獄の時は六人なり。

 

(すで)にして替合(かわりあい)あり。替合とは当番交代するなり。此の時、鍵役の外皆斉(ひと)しく交代するなり。

当番六人にて一ト番を勤む。外に小頭(こがしら)・世話役あり。当番中にて年功を以て是れに命ず。皆斉(ひと)しく番を勤むるなり。交代の法、後番の世話役及び当番一人、各獄の人数高を片紙に録し手に持し来る。当番云わく、「替り合」。獄中云はく、「若干人」と。是くの如く各獄検査し終り、然る後交代す。此の時、若干人と云ふは、現高を以て対(こた)ふるなり。総べて高を対ふるに、朝高と只今高と両様あり。朝高は朝戸前を明けたる時の数なり。若し早呼出(はやよびだし)等ありて、替り合より前に出づとも拘らず。

食し畢(おわ)る頃、御食事方廻る。日く、「御食事は宜しきか」。又菜代を給する事をも云ふ。 御食事方一人、亦牢屋同心の老いたる者。

菜代は揚屋六人、牢屋十二人の役人へ、各人日に三文を給す。是れを鍵役預り置き買物の料とす。出入の会計を一簿に録し、毎朝食事の時、各獄に向ひて幾銭余りあり不足あることを告ぐ。余、深く獄吏の煩を憚らざるを感ずと云ふ。

(すで)にして買物すべき由にて張番の者来る。台処の夫卒来りて掃除をなす。此の時も当番両三人来る。

買物の料は、菜代及び宿願を以て届け来る所の銭二百文を簿に存し、獄吏是れを預る、是れにて弁ずるなり。買物の件々は、獄中に給し置く所のキメ板と云ふものあり、是れに録して出すなり。キメ板とは、桐の木の厚さ五分幅三寸余長さ二尺五六寸なるものなり。是れへ鈍頭の錐にて字を刻して出すなり。抑々キメ板の用甚だ博し。故に獄中の言に云はく、「キメ板一つにて獄中の治をなす」と。其の用、獄吏に願出ることは悉(ことごと)くキメ板に刻して出す。又獄中にて役を命ずる時、名主、板を携へ出づ。獄中の役(4)、添役以下、皆名主の命ずる所。人を罪し及び人の役を奪ふ時、亦皆板を携へ出づ。罪ある者は、板を以て其の背を打つ。名主・添役の外、擅(ほしいまま)に用ふることを許さず。隅役・二番役、用ふることあれば、添役に就いて是れを借る。板の構様(かまえよう)、名主・添役・隅役・二番役、各々異なり。但し揚屋にては甚だ拘はらず。此の類甚だ繁雑、贅するに及ばず。

四ツ時、湯水を給す。

各獄、湯二田子、水二田子宛なり。揚屋にては、四斗樽二箇を設け、一箇に湯を溜め置き、追々一箇へつぎ足して四斗桶を風呂とす、妙甚し。大牢・
二間牢にては人多くして湯少なし、固(もと)より遍く及ぶこと能はず。尤も朝タの食事にも、飲湯二田子を給すと云ふ。

薬を給す。

六ツ過ぎと異なることなし。

医者来る。

本道医者(5)一人宛留宿する故、急病あれば、朝暮夜間を云はず、願次第来り診す。然れども定(きま)りて来るは此の時なり。此の時は本道二人来る。外療は留宿なし、且つ二日を隔てて来る、一人なり。然れども急病あれば、夜間にても其の宅へ呼びに遣はすなり。牢内に法度書あり、板に記して高く掲ぐ。日々仰ぎ睨(げい)すれども、今其の全文を忘却す。享和中の定むる所かと覚ゆ。其の条中、疾病の事に於て尤も反復是れを言へり。此の一事、余深く感ず。我が野山獄の如きは病ありと雖(いえど)も、治を施すべきの術なし。往昔の流例を聞く、絶食三日を過ぐるに非ざれば敢えて官府に届け出でず、医員を招くことを許さず。二十年来留居の人の云ふ所、皆然り。且つ云はく、「医来ると雖も、扁鵲(へんじゃく)(6)の手に非ざること固よりなれば、安んぞ能く起虢(きかく)(7)の功を奏せんや」。然れども余已(すで)に斯()の身に於て萬々顧惜(こせき)する所なし、豈に敢えて区々一己の為めに是れを言わんや。但だ匹夫の非命、所を得ざる、窃(ひそ)かに伊尹(いいん)の為に是れを(8)()づるのみ。

呼出の者出づる。

呼出とは、両町奉行(9)寺社奉行(10)・御勘定奉行(11)及び加役方(12)へ囚徒を呼出し、罪収を鞠問せらるるなり。尤も呼出の事は、朝戸前の明かぬ前に当番より触れ渡すなり。呼出の時、揚屋に居る身分の者(幕府同心以上、諸家徒士以上)は肩輿に載す、伝馬町の夫卒是れを舁()く。平物(諸家足軽中間の類、及び百姓・町人・無宿物を云ふ)はもつこうに載す、乞食是れをかく。並びに牢屋同心宰領す。但し加役方は、加役方の同心迎ひに来る、呼出の事も朝より知れず、又もつこう(畚=もっこ)にも乗せず、歩行せしむ。尤も重罪人はもつこうに乗す、是れを当りもつこうと称す。

九ツ過ぎ時、ネバを給す。

八ツ時、煎湯・願物等を給す、皆前に同じ。但し此の時は赤小豆粥を給す。是れ獄中の病大抵熱病なるを以てなり。

七ツ時、飯・味噌汁・飲湯を給す、亦前に同じ。

湯水を給す、亦前に同じ。一日再浴、是れ則ち快とすべきのみ。暮前、膏薬を給す。大病人あれば、願に因りて別煎を給する者、此の時持ち来る。余大病、亦別煎を服す。此の薬最も効あるを覚ゆ。渋木生(13)も亦云ふ。

六ツ前、戸前を閉づ。

是れを替合と云ふ、交代すること朝の如し。又カズへとも云ふ。此の時は鍵役・御立合並びに来る。小頭、獄中に入り人数を計ふ、故に力ズへと云ふなり。

夜六ツ時より暁六ツ時迄、一時半時に当番「たく」を撃たせて廻る。六ツ半、暁七ツ半には鍵役廻る。

鍵役廻る時は各獄皆問ふ所あり。云はく、「揚屋(揚屋なれば、第一句に揚屋と云ふ、他之れに同じ)御替りも無きか」。獄中答へて云はく、「今晩高若干人、一同相替りません、難有い仕合(しあわせ)に存じ奉ります」と云ふ。此の高亦現高なり、夜間出入あれば、従つて増減して答ふ。当番の廻る時は、云はく、「揚屋」。答へて云はく、「御ありがたう」と。是れ省文のみ。夜間五ツ時已後(いご)は獄中皆寝に就く。一時一人の夜番不寝の者を置く。夜番の者誤って仮寝(うたたね)することあれば厳に責罰するなり。

江戸の獄、一日の事、大略右の如し。獄中の規制に、至って厳整詳密観るべきもの甚だ多し。今是れを詳かにするに暇あらず。大抵無宿牢には真の牢法あり、百姓牢は半牢法と云ひ、揚屋は無法と云ふ。渋生久しく百姓牢に在り其の法を諳んず。独り渋生(14)を起(たた)して共に其の得失を論ずることを得ざるを惜しむのみ、哀しいかな。

 

附記

湯日と云ふあり。夏月は毎月六度、春秋は五度、冬時は四度なり。此の日朝四ツ時、揚屋は湯四田子(たご)、水二田子なり。但し七ツ時の湯水なし。大牢・二間牢は別に浴室あり、獄を出で浴室に往きて浴す。是れ甚だ牢屋中の者の苦悩を免かれしむるに足る。夏月は涼みと号し、隔日に八ツ時後、外鞘(そとざや)の内に出るを許す。甲の日、口揚屋(くちあがりや)・大牢なれば、乙の日、奥揚屋・二間牢なり。

御廻りと云ふことあり。囚獄石出帯刀(御頭と称す)日々廻る。朝戸前を開きたるより晩戸前を閉づる迄に廻れば、獄中云はく、「申上げます、朝高(あさだか)若干人」と、朝戸前を開きたる時の人数高を云ふなり。其の後、呼出等あり又は新入等ありて、現人数は増減ありとも夫れに拘らず。晩戸前を閉ぢてより六ツ時までの間、暁六ツ時より後戸前を開く迄の間に廻れば、並びに「只今高若十人」と云ふ。此れは現高なり。夜間に廻れば、「申上げます、今晩高若干人、一同相替りません、ありがたい仕合に存じ奉ります」と云ふ。又両町奉行の与力(よりき)、見廻衆(みまわりしゅう)と唱ふる官員あり、是れ亦毎日或は隔日に廻る。獄中云ふこと石出に於けるに同じ。但し夜廻るとも、一同替りませぬ云々の語を云はず。御徒士目付(おかちめつけ)、是れ亦一日はざみ二日挟みには廻る。自ら云ふ、「御手当はよいか、申立つる儀はないか」と云ふ。獄中答へて曰く、「申上げます、平日、表御役人中様より御手当宜しく、御食事・御煎湯に至るまで一同行届きまして、難有い仕合に存じ奉ります」。其の聲の未だ絶えぬ内に、総人数一斉に、「一同………」と大声を発す。御目付廻る時は御徒士目付従行す。呼びて云はく、「御目付衆御廻り、御手当はよいか」云々。(下、同前)答語亦同前。又係りの奉行にて、詮議筋不行届の事あるか、叉久しく呼出なき故呼出を願ふか、何か願ふことあれば右の諸吏廻る時、自ら進みて願ふことを許す。是れを這出願(はいだしねがい)と云ふなり。願終れば諸吏答へて曰く、「聞届けぬ、其の筋に申達すべし」と答ふ。已(すで)にして当番より這出の名前を聞きに来る故、其の姓名、郷貫(郷里の戸籍)、係り奉行の名前と願ふ所の事柄を、キメ板に刻して出すなり。

町奉行、月番に当らぬ方、月に一度廻るなり。此の時は獄中より言はず、鍵役従行し、口揚屋若干人、奥揚屋若干人などと唱ふるなり。

江戸獄には滞囚なきを主とす。故に大獄と雖(いえど)も、大抵六ケ月内に口書(15)を定め、叉六ヶ月内に罪を定む。然れども十二ヶ月に亙(わた)る者甚だ少なし。但し大辟(たいへき)以上は故(ことさら)に遅延することもあり、是れを以て慈悲の一端とす。余、四月十五日を以て獄に下る。時に、囚徒十三人あり。九月十八日出牢迄に一人も残りなく出牢し終わる。其の間、ニ三月、一月、半月、数日にして出入する者、前後通計して五十人にも及ぶなり。何故に滞囚を嫌ふぞと問へば、軽罪の囚を久しく獄に置けば、益々悪事を思案し、悪党の切磋を歴()る、損多くして益少なし。重罪の囚は多く天下有名の大盗巨猾なる故に、或は獄中を騒がし、甚しきは牢脱を計るに至る。是れ亦不便の甚しきものなり。故に罪軽重となく早く出牢せしむるを主とすと云へり。(聞く、発丑の冬、牢脱の事共、其の詳を聞きしが、実に江戸獄は大盗巨猾の会集する所、驚くに堪へたり。)囚徒三百人に充つることは少なし。但し病囚は浅草・品川の両溜(りょうだまり)に居るなり。是れ亦各々二百人に下らずと聞く。然れども其の詳を知らず。伝馬町獄一日の出入、率(おおむ)ね十数人に下らず。病死人、東の二間牢・西の大牢・二間牢甚だ夥(おびただ)し。三牢にて日々三人に下らず。是れ余が親しく視る所なり。揚屋・女牢及び百姓牢には、牢死人甚だ少なし。其の由多緒なりと雖も、人数の多少も亦其の由なり。

御座敷旗本衆の牢・百姓牢・女牢、此の三牢別にあり。今皆空圄(くうご)

 

(獄の間取り図)

 

東二間牢、大略六七八十人。東奥揚、十人より十五六人。女牢、八九人より十三四人。東大牢、三四五十人。東口揚、大略同じ。西大牢、七八九十人。西二間牢、時としては百人にも及ぶ。人数日々不同あれば定言し難し。余が居る時、日々心を付けて是れを視るに因りて、其の大略を云ふことを得。

江戸獄、裏表共に格子なる故、夏月、夜甚だ涼し。且つ日影遠き故、昼日も甚だ熱ならず。冬月は紙にて格子を張りつぶす故、亦甚だ暖なりと云ふ。且つ冬日は参湯を給し、夜間、熱湯を徳()に入れたるを給すと云ふ。夏日の事は余が親しく視る所にして、冬月の事は人に聞く所なり。且つ聞く、寒三十日は夜間粥を給すと。

牢内、法度の品あり、金・銀・歯物・書物・火道具類是れなり。入牢の時は必ず此の事を申渡すなり。然れども牢入あれば、当番等来りて金銀を求む。是れ則ち笑ふべきの甚しきものなり。

盆節には鯖(すし)代・索麺(そうめん)代と号し、各囚に銭二百文を給す。索麺代は奉行所より給す。鯖代は囚獄より給す。正月には雑煮等を給す。是れは其の詳を忘る。

盆節の祭霊の具、八月十五夜、九月十三夜祭月の具、是れは買物料を以て調(とな)へて給す。名主及び添役へ、歳末に銭各々一貫文かを給す。

衣食等、各囚の家より贈るには、家より懸りの奉行所へ願出で、許允(きょいん)の上獄合へ送る。獄舎の書役、其の書附を携へ獄中へ読知せしめ、当人へ渡すなり。獄中より願出る者は、キメ板に刻し当番に出し、書役写し取り奉行所へ達す。奉行所より各囚の家へ授く。各囚の家より贈ること一に上に同じ。

揚屋には働人の為めに附人(つけびと)と号し、百姓牢・無宿牢に居る者、六人以下を入るることを許す。揚屋より人を指して望み取ることも、他故さへ無ければ相叶ふなり。附人の内、名主の心に応ぜざる者は亦牢替も大抵望みの通りなり。且つ揚屋に居るべき身分の者にても、故あれば名主の申立に依りて牢替することもあり。趣に依りては百姓牢等へ預くるなり。是れに囚りて一つの知るべきことあり。諸藩足軽以下は通じて百姓牢に入る、若し身分明白なりざれば無宿牢に入る。(渋生も初夜、無宿牢に入る、明早、百姓牢に転ず。)無宿牢に至りては、人衆(おお)く法厳し。囚徒金なき者、往々死を免かれず。(畳?に十五人十八人を坐するに至る。)若し是れを愍(あわれ)まば早く鍵役輩へ些少(さしょう)の金を与ヘ、揚屋へ附人に入るることを頼むべし。且つ獄中へも些少の金を贈るべし。渋生、無宿牢・百姓牢等に入り、死せざることを得たるものは、奉行所より厚く手当致すべき旨を令せしに囚りてなり。是れを手当囚人と云ふ。(事体重大、必ず尋鞠(じんきく)を要する者は大手当囚人とす。)是れを以て頼みとし、後来獄に陥る者を顧みざる事あれば必ず非命の死を致し、上慈を傷(きずつ)くるに至る、思はざるべけんや。

幕吏財賄に耽る、賤(いや)しむべきの甚しきと雖も、其の然諾(ぜんだく)を重んずるは則ち嘉(よみ)すべし。奉行所より手当の命あるか、頭石出帯刀より頼むかすれば、獄吏輩も丁寧に是れを処する故、獄中にても決して忽(ゆるが)せにはせぬなり。其の他、御立合・見廻り等へ託するも亦可なり。尤も可なるは鍵役に若()くはなし。何となれば、牢替等の事は鍵役の取行ふ所なればなり。抑々獄中の法、立引と号し、人の頼託を受けたる囚人は名主以下決して忽せにはせぬなり。手当囚人は勿論、諸吏の託する所、及び有名の侠客・博徒の託する所等に至る迄、皆然り。黄金多からざれば顧みざること獄中の風と雖も、徒らに黄金ありて頼託なき者は亦甚だ顧みざるたり。

毎歳七月十二日、満獄の囚徒、悉く髪を薙(から)せしむ。髪結は江戸中の床屋、役目にて出るなり。遠島の者、出帆前日亦髪を薙せしむ。平日は結髪、平人に異なることなし。但だ髪を剃らざるのみ。加役方(火付盗賊改、放火犯の取り締まり)よりは油代毎月幾銭を給す、他の三奉行は是れなし。

 

(1)士分の未決囚を入れ置く処

(2)牢内は囚人の自治制を認む。囚人中より選ばれし者、名主・添役等をいう

(3)獄吏の職名、俗に囚獄奉行又は牢奉行ともいう

(4)囚人自治制上の役をさす

(5)漢方医の方で内科医者をさしていう

(6)支那戦国時代の名医

(7)魏国の太子死す。扁鵲遂に蘇生せしむと云う伝説より出づ

(8)殷の湯王に仕えし賢相。天下を以て己が任となし、一夫も所を得ざれば、これ予の罪なりと曰ふ。孟子は彼れを聖の任なる者と称す

(9)江戸南北町奉行にして評定所の職員

(10)寺社及びその領地、関八州(江戸時代の関東地方の呼称)以外の私領に関する訴訟事件を処理す。他の奉行に比してその位高し

(11)公事方・御勝手方の二つに分かれ評定所の裁判に関係を持ちしは公事方の方にて、全国の御料と関八州私領内の民事刑事を処理す

(12)火付盗賊改方をいふ。江戸市中を巡回して放火・盗賊・博打の三罪人を逮捕し裁判す

(13)金子重之助の変名

(14)渋木生即ち金子重之助はこの年正月十一日萩の岩倉獄にて病死す

(15)被告人の口供陳述書

 

<現代語訳>

毎日、朝六時過ぎに戸前を開ける。

戸前は出入口が半間(91cm)の幅である。二寸五分(7.6cm)角程の格子戸がある。外に開く。夜間は内から板戸を立てて外で錠をかけ、また格子戸にも錠をかける、すなわち二重錠となっている。ここで戸前を開けるというのは、内の板戸をはずして内へ入れることである。○此の時は御立合・鍵役が、当番所まで来る。当番が三、四人来て錠を開く。食事、湯水等を運ぶために戸前を開く時もすべてこれに準ずる。

此の時、粥・ネバ・茶・煎湯二種を配給する。

粥は願物(ねがいもの)という。これは総べての人へ配給するのではなく、病人の数を照合して願出があれば配給する。故にこれを願物という。ネバとは飯汁のこと。飯はザルで研いだ飯なのでその研ぎ汁を配給する。これは飲料としても使い、また衣類を洗濯するのにも用いる。

茶は揚屋(1)へ配給するのみで、他獄へは配らない。

煎湯(せんとう)は二種類あり、一種は病人の症状に対して各々に配給する。もう一種は御並と称する。これは獄中が陰湿の地であり、疫癘湿瘡(えきらいしっそう)の気が流行するので、用心薬のために配給する。煎湯を配給する時、御立合・書役(かきやく)が来て監視する。以上のすべてにおいて、鍵役は当番所まで来るだけである。

八時、飯・味噌汁・飲湯を配給する。この時、御立合・鍵役が、各々一人ずつ来て監視する。

飯は一人につき、モツソ(物相)一盃。モツソとは竹柄杓の柄がないものである。揚屋の中で六人、牢中で十二人の役人(2)がいて、それらの役人に対しては、高く盛った飯を配給する。その他の者たちは平盛である。

飲湯は大田子一盃。

御立合と云うのは、八町堀同心(同心は江戸幕府の下級役人のひとつ。与力の下にあって庶務・見回などの警備に就いた)のことである。万事を監察するために、南北町奉行から一人ずつ出役させ宿直させる。鍵役は牢屋同心である。すなわち囚獄石出帯刀(しゅうごくいしでたてわき)(3)の支配する所だ。同心は、初めは、当番あるいは書役等を勤めて、年功を積んで鍵役となる、獄吏中の重役である。余が在獄していた時は、六人いた。

やがて替合(かわりあい)がある。替合とは当番交代することである。この時、鍵役のほかは皆斉(ひと)しく交代する。

当番六人で一回の番を勤める。ほかに小頭(こがしら)・世話役がいる。当番の中で年功者がこれに命じられる。皆(四人?)が斉(ひと)しく番を勤める。交代の方法は、後番の世話役及び当番一人が、各獄の人数高を片紙に記録して手に持って来る。当番が「替り合」と言う。獄中では「若干人」と言う。このようにして各獄の検査が終わり、その後に交代する。この時、若干人と云うのは、現高でもって答える。総べて高を答えるときは、朝高と只今高の両方がある。朝高は朝、戸前を明けた時の数。もし(奉行所から)早呼出(はやよびだし)等があって、替り合より前に出てしまったとしても関係なく、只今高を現高として答える。

食べ畢(おわ)る頃、御食事方が廻る。日く、「御食事は宜しきか」。また野菜代を配給する事も伝える。 御食事方は一人で、牢屋同心の老いた者がこれにあたる。

菜代は揚屋の六人、牢屋の十二人の役人へ、各人に対して日に三文を渡しておく。これを鍵役が預り置いて買物の料金とする。出入の会計を一帳簿に記録し、毎朝食事の時、各獄に向って幾銭余りがあり、不足がいくらあるかということを告げる。私は、獄吏が面倒なことをためらわず実行するのに深く感動している。

やがて買物をするために張番の者が来る。台処の夫卒が来て掃除をする。この時も当番両三人が来る。

買物の料金は、菜代及び宿願を届けて来た銭二百文を帳簿に保存して、獄吏がこれを預かり、これで工面する。買物の件は、獄中に配給しておく所のキメ板というものがあり、これに記録して出す。キメ板とは、桐の木の厚さが五分、幅三寸余、長さ二尺五六寸(1.5x9.1x77cm3)なるものだ。これに対して鈍頭の錐で字を刻印して提出する。そもそもキメ板の用途はとても広い。故に獄中の言として、「キメ板一つにて獄中の治をなす」と言われる。その用途で、獄吏に願出ることは悉(ことごと)くキメ板に刻んで出す。また獄中で役を命ずる時は、名主が、板を携へて出る。獄中の役(4)は、添役以下はみな、名主が命じて決まる。人を罪し人の役を奪う時にはすべて、板を携へて出る。罪ある者は、板でその背を打たれる。名主・添役のほかは、擅(ほしいまま)(キメ板を)用いることは許されない。隅役・二番役が、用いることがあれば、添役に就いてこれを借りる。板の構様(かまえよう)、名主・添役・隅役・二番役、各々で異なっている。ただし揚屋では特にこだわらない。この類のことはたいへん繁雑であり、必要以上のことを言うには及ばない。

午前十時、湯水を配給する。

各獄で、湯二田子、水二田子ずつ。揚屋では、四斗(72L)樽二箇を設け、一箇に湯を溜め置き、追々一箇へつぎ足して四斗桶を風呂とする、妙甚し。大牢・ 二間牢では人が多くて湯が少ない、もとより全ての人が風呂に入ることはできなかった。尤も朝タの食事にも、飲湯二田子を配給するという。

薬を配給する。

朝六時過ぎの場合と異なることはない。

医者が来る。

本道医者(5)一人ずつ留宿する故、急病人があれば、朝暮夜間をいわず、願があり次第来て診断する。けれども定期的に来るのはこの時だけだ。この時は本道二人が来る。外療(外科医)は留宿しない、かつ二日を隔てて一人だけが来る。けれど急病人があれば、夜間でも医者の家へ呼びに遣わせる。牢内に法度書があり、板に記して高く掲げている。日々仰ぎ睨(げい)すれども、今その全文を忘却してしまった。享和(1801年から1804年まで)中に定められた所かと覚えている。その条中で、疾病の事についてもっとも繰り返してこれを言っていた。この一事に、私は深く感じ入った。我が野山獄の如きは病ありと雖(いえど)も、治を施すべき術がなかったのだ。往昔の流例(=慣例)を聞くと、絶食三日を過ぎているのでなければ敢えて官府には届け出ず、医員を招くことを許さなかった。二十年来留居している人の言う所によれば、皆その通りだと。かつ云はく、「医者が来ると雖も、扁鵲(へんじゃく)(6)の手によるものでないのであれば、どうして起虢(きかく)(7)が息を吹き返すということがあろうか」。そうであっても私は已(すで)に斯()の身に於て、充分に大切にする所はなく、決して敢えて取るに足らないような自分一人ごときのために是れを言っているのではない。ただ卑しいこの私は思いがけず、適所を得られないことに、伊尹(いいん)(8)のためもあってひそかに恥ずかしく思っている。

呼出の者が出てくる。

呼出とは、両町奉行(9)寺社奉行(10)・御勘定奉行(11)及び加役方(12)のもとへ囚徒が呼び出され、罪収を鞠問(きくもん=問いただす)させられることである。尤も呼出の事は、朝戸前の明かないうちに当番より触れ渡される。呼出の時、揚屋にいる身分の者(幕府同心以上、諸家徒士(しょかかち)以上)は肩輿(かたこし=かご)に乗せて、伝馬町の夫卒がこれを舁()く=かつぐ。平物(諸家足軽中間の類、及び百姓・町人・無宿物のことを云ふ)は畚(もっこ=かご)に乗せて、乞食が是れをかつぐ。並びに牢屋同心が宰領(さいりょう=取り締まり)する。ただし加役方は、加役方の同心が迎えに来て、呼出の事も朝に知らされず、もっこにも乗せず、歩行させる。もっとも、重罪人はもっこに乗せるが、これを当りもつこうと称する。

十二時過ぎ、ネバを配給する。

午後二時、煎湯・願物等を配る、すべて前述の通り。ただしこの時は赤小豆粥を配給する。これは獄中の病が大抵熱病によるものであるからだ。

午後四時、飯・味噌汁・飲湯を配給する、これまた前に同じ。

湯水を給する、また前に同じ。一日のうち再度湯水を浴びられることは、快いことと思うべきであろう。暮前、膏薬を配給する。大病人あれば、願によって別煎を配る者が、この時に持って来る。私は大病になって、別煎を服用した。この薬が最も効果があったことを覚えている。渋木生(13)もまたそう言っていた。

夕方六時前、戸前を閉じる。

これを替合という、交代することは朝の時と同じ。又カズへともいう。この時は鍵役・御立合並びに来る。小頭、獄中に入り人数を計える、故に力ズへというのだ。

夜六時より暁六時まで、一、二時間ごとに当番に「たく」を撃たせて廻る。夜七時、暁五時には鍵役が廻る。

鍵役が廻る時は、各獄で皆が問うことがある。云はく、「揚屋(揚屋なれば、第一句に揚屋と云ふ、他之れに同じ)御替りも無きか」。獄中答へて云はく、「今晩高若干人、一同相替りません、ありがたい仕合(しあわせ)に存じ奉ります」と云ふ。この高は現高であって、夜間に出入があれば、増減させて答える。当番が廻る時は、云はく、「揚屋」。答へて云はく、「御ありがとう」と。これは省文(省略した言葉)だけである。夜八時以後は獄中皆寝に就く。一時(二時間に)一人の夜番不寝の者を置く。夜番の者が誤って仮寝(うたたね)することがあれば厳に責罰する。

江戸の獄、一日の事は、大略右のようなものである。獄中の規則は、至って厳整で詳密であり観るべきものが大変多いと思う。今これについて詳細を述べる暇はあらず。大抵、無宿牢には真の牢法があり、百姓牢は半牢法といい、揚屋は無法という。渋生は長いあいだ百姓牢に在り、其の法を諳(そら)んじていた。独り渋生(14)を目覚めさせて、共に其の得失を論ずることができないことを惜しむのみ、哀しいかな。

 

附記

湯日と言われるものがある。夏月は毎月六度、春秋は五度、冬時は四度ある。この日の朝十時、揚屋は湯四田子、水二田子。ただし午後四時の湯水はない。大牢・二間牢は別に浴室あり、獄を出で浴室に行って浴びる。これ甚だ牢屋中の者の(人数が多すぎることに関する)苦悩を免がれるのに充分である。夏月は涼みと号し、隔日に二時になると、外鞘の内(格子戸のあいだのスペース)に出ることが許される。甲の日は、口揚屋・大牢であり、乙の日は、奥揚屋・二間牢である。

御廻りと言われるものがある。囚獄石出帯刀(御頭と称す)が日々廻る。朝、戸前を開いてから、晩、戸前を閉じるまでに廻ったときに、獄中云はく、「申上げます、朝高若干人」と、朝、戸前を開いた時の人数高を伝える。その後、呼出等があり、または新入等があって、現人数に増減があったとしてもそれにはこだわらない。晩、戸前を閉じてから午後六時までの間、暁六時から戸前を開くまでの間に廻ったとき、並びに「只今高若十人」と伝える。これは現高である。夜間に廻れば、「申上げます、今晩高若干人、一同相替りません、ありがたい仕合に存じ奉ります」と言う。また両町奉行の与力、見廻衆と呼ばれる官員がいて、これまた毎日あるいは隔日で廻る。獄中に対して伝えることは石出の場合と同じである。ただし夜廻ったときも、一同替りませぬ云々の語は言わない。御徒士目付(おかちめつけ)、これまた一日はざみ二日挟みで廻る。自ら云ふ、「御手当はよいか、申立つる儀はないか」と云ふ。獄中答へて曰く、「申上げます、平日、表御役人中様より御手当宜しく、御食事・御煎湯に至るまで一同行届きまして、ありがたい仕合に存じ奉ります」。その聲(こえ)の未だ絶えない内に、総人数が一斉に、「一同………」と大声を発する。御目付が廻る時は御徒士目付が従行する。呼びて云はく、「御目付衆御廻り、御手当はよいか」云々。(下、同前)答語亦同前。また係りの奉行にて、詮議筋不行届の事あるか、また長い間呼出がないが呼出を願うか、何か願うことがあれば右の諸吏が廻る時、自ら進んで願うことを許す。これを這出願(はいだしねがい)という。願終れば諸吏答へて曰く、「聞届けぬ、其の筋に申達すべし」と答ふ。やがて当番から這出の名前を聞きに来るので、その姓名、郷貫(郷里の戸籍)、係り奉行の名前と願う所の事柄を、キメ板に刻して出す。

町奉行、月番に当らない方は、月に一度廻る。この時は獄中からは言わずに、鍵役が従行して、口揚屋若干人、奥揚屋若干人などと唱える。

江戸獄では滞囚がないことを第一としている。故に大獄と雖(いえど)も、大抵六ケ月以内に口書(15)を定め、また六ケ月以内に罪を定める。然れども十二ケ月に亙(わた)る者はたいへん少ない。ただし大辟(たいへき、重い刑罰)以上は故(ことさら)に遅延することもあり、これを以て慈悲の一端とする。余、四月十五日を以て獄に下る。時に、囚徒十三人がいた。九月十八日に出牢する迄に一人も残りなく出牢し終わる。その間、二、三月、一月、半月、数日にして出入する者、前後通計して五十人にも及んだ。何故に滞囚を嫌うのかと問えば、軽罪の囚を長く獄に置けば、益々悪事を思案して、悪党の切磋(悪巧み)を歴()てしまうので、損が多くて益が少ない。重罪の囚はその多くが天下有名の大盗巨猾であるが故に、あるいは獄中を騒がし、甚しきは牢脱を計るに至る。これもまた不便の甚しきものなり。故に罪の軽重となく出来る限り早く出牢させることを主とするのである。(聞いた話だが、発丑(1853)の冬、牢脱の事共、その詳細を聞いたところ、実に江戸獄は大盗巨猾の会集する所で、たいへん驚いた。)囚徒三百人が満員になることは少なかった。ただし病囚は浅草・品川の両溜(病人の保護施設)に居るということ。これもまた各々二百人に下らずと聞く。然れども其の詳は知らない。伝馬町獄で一日の出入り、率(おおむ)ね十数人に下らず。病死人、東の二間牢・西の大牢・二間牢は甚だ夥(おびただ)しい。三牢にて日々三人に下らず。これは余が直接見たところだ。揚屋・女牢及び百姓牢には、牢死人がたいへん少ない。その原因は様々あると雖も、人数の多少もまたその理由であろう。

御座敷旗本衆の牢・百姓牢・女牢、此の三牢別にあり。今は皆空いている。

 

(獄の間取り図)

 

東二間牢、大略六七八十人。東奥揚、十人より十五六人。女牢、八九人より十三四人。東大牢、三四五十人。東口揚、大略同じ。西大牢、七八九十人。西二間牢、時としては百人にも及ぶ。人数は日々同じではないのではっきりした数字は言い難い。余が居る時、日々注意してこれを視ることによって、その大略を言うことができた。

江戸獄は、裏表が共に格子なので、夏、夜は甚だ涼しい。かつ日影が広いので昼も甚だ熱くはならない。冬は紙で格子を張りつぶすので、また甚だ暖かいという。かつ冬は参湯を配給し、夜間、熱湯を徳()に入れたものを配給するという。夏日の事は余が直接見たところで、冬月の事は人に聞いたところだ。かつ、寒三十日(かんみそか、寒の入り=一月初旬から節分までの三十日間)は夜間、粥を配給すると聞く。

牢内、法度の品があり、金・銀・歯物・書物・火道具類がこれである。入牢の時は必ずこの事を申し渡す。けれども牢入があれば、当番等が来て金銀を求める。これ則ち笑ふべきの甚しきものなり。

盆節には鯖(すし)代・索麺(そうめん)代と号し、各囚に銭二百文を配る。索麺代は奉行所から配られる。鯖代は囚獄から配られる。正月には雑煮等を配給する。これはその詳細を忘れた。

八月十五日夜、盆節の祭霊の具や、九月十三日夜の祭月の具、これは買物料を調整して給する。名主及び添役へ、歳末に銭各々一貫文かを給する。

衣食等を、各囚の家から贈るには、家より懸りの奉行所へ願出で、許允(きょいん)の上獄合へ送る。獄舎の書役、その書附を携へて獄中へ読知させて、当人へ渡す。獄中より願出る者は、キメ板に刻んで当番に出し、書役が写し取って奉行所へ届ける。そして奉行所から各囚の家へ授ける。各囚の家から贈る場合も上に同じである。

揚屋には働人のために附人(つけびと)と号し、百姓牢・無宿牢に居る者、六人以下を入らせることを許している。揚屋より人を指して望み取ることも、他の事情さえ無ければ叶う。附人の内、名主の心に応ぜざる者はまた牢替も大抵望みの通りなり。かつ揚屋に居るべき身分の者でも、故あれば名主の申し立てに依って牢替することもある。事情に依っては百姓牢等へ預かることもある。これに囚って一つの知るべきことがある。諸藩足軽以下は通じて百姓牢に入るが、もし身分が明白でないならば無宿牢に入る。(渋生も初夜、無宿牢に入る、明早、百姓牢に転ず。)無宿牢に至っては、人が衆(おお)くて法が厳しい。囚徒で金がない者は、往々死を免がれない。(畳?に十五人十八人を坐するに至る。)もしこれを哀れに思うのならば早く鍵役輩へいくらかの金を与えて、揚屋へ附人として入ることを頼むべきである。かつ獄中へも些少の金を贈るべきだ。渋生は、無宿牢・百姓牢等に入って、死なずにいることができたのは、奉行所から厚く手当致すべき旨を命令されていたことによるのだ。これを手当囚人と言う。(事体重大、必ず尋問を要する者は大手当囚人という。)これを以て頼みとして、後から来て獄に陥る者を顧みない事があれば必ず思いがけない死に致り、上の人が持つ慈しみの感情を傷つけるに至ることを、思わずにいられるだろうか。

幕吏が財賄に耽るのは、賤(いや)しむべきこと甚だしいと雖も、いったん引き受けたことは約束を守って実行するので良しとすべきであろう。奉行所より手当の命があるか、頭石出帯刀より頼むかをすれば、獄吏輩も丁寧にこれを処する故、獄中でも決して忽(ゆるが)せにはしない。その他、御立合・見廻り等へ託すこともできる。もっともその融通の程度は鍵役のそれには及ばない。何となれば、牢替等の事は鍵役の取り行なう所であるからだ。そもそも獄中の法、立引と号し、人の頼託を受けた囚人は名主以下決して忽せにはしないのだ。手当囚人は勿論、諸吏の託する所、及び有名の侠客・博徒の託する所等に至るまで、皆然り。黄金を多く持っていない場合に顧みられないのが獄中の風と雖も、徒らに黄金があるだけで頼託がない者は甚だ顧みられないのだ。

毎歳七月十二日、満獄の囚徒、悉く髪を刈られる。髪結は江戸中の床屋が、その役目を引きうける。遠島の者は、出帆前日にまた髪を刈られる。平日は結髪、平人に異なることはない。ただ髪を剃らないだけである。加役方(火付盗賊改、放火犯の取り締まり)からは油代が毎月幾銭を渡されるが、他の三奉行からはない。