11ヶ月ぶりに

11ヶ月ぶりに記事を書く。特に強く書こうと意識した話題があるわけではないので、例によって行動を起こしたときの状況を記すことにする。

夕方に帰宅して、しばらく横になっていた。20時半頃にからだを起こし、遅めの夕食を食べた。ノートパソコンでYouTubeを見ていたが、ふと自分のブログを見ることにした。数日前から、部屋の整理をしていたら萩を訪れた時に買った本が出てきたり、橋本治『失われた近代を求めて』を読み始めて古典との接続に関心がいったりして、ブログでチャレンジしている吉田松陰の著作を読むことへのきっかけを取り戻し始めていた。そして、ブログのURLをクリックしたときはちょっと眺めるだけのつもりでいたが、プロバイダを解約した際にブログが引き継げるのかあるいは引っ越せるのかを調べたり、ログインしてインターフェースが更新されていることに気づいたりしているうちに、書いてみようと思ったのだった。

明日も書くかは分からないが、何か変化のきっかけにはしたい。

ちなみに、『失われた近代を求めて』は上巻の1/3ほどを読み進めた。二葉亭四迷慈円が、明治と鎌倉という時代を隔てていても、新しい日本語表現に精力を注いだ点で共通していることを知った。言文一致というと、もともとある文語体と新たに開発された口語体を両方用いると普通は理解されるが、言文一致が一般的になると、その2つが分かれていること自体が分からなくなる。なので着目すべきは、二葉亭四迷慈円がやったことはじつは、漢文(外来語、古典)と和文をどう混ぜ合わせて新たな文体を作るかということだ、と述べられていた。

また、吉田松陰全集の現代語訳は「儲糗話」が途中まで進んでいる。