松井冬子展 1

先週月曜日の成人の日に、「松井冬子展 世界中の子と友達になれる」に行った。

館内の照明や作品の空間配置の影響もあるだろうが、1つ1つの作品に圧倒された。

ここでは、いくつか気づいたことをメモとして残しておく。

入ってすぐの所には、確か「盲犬図」があったと思うが、それを5分ほど見た。その後に向かい側の壁の「たちどころに破れた異物」を見た。奇妙な絵で、はじめ何なのか分からなかったが、次第に花のように見えてきて、液体が湧き出ているようにも見え、そしてまた何なのか分からなくなった。

作品群に特徴的なのが、短い名詞の作品名もあれば、1つの箴言のように題された作品もあることだ。この理由を自分は知らないが、絵と題名の関係を考える上で気なるところだった。絵そのものについては、細部にわたる技術の凝縮があって、作品を通して知るしかない。技術の説明がなされても、ただ頷くしかないし、表現されたものを見て何を感じるかが重要だろう。一方で、言葉と作品の関係については、たとえばセクション毎の各テーマに、美術館による作品世界の紹介がされていたり、ある作品について作家本人の注釈があったりした。美術館による紹介には、芸術家への温かいまなざしが感じられ、また本人注釈には作品に対する客観的視点、作家の感性、そして何より絵画への思いを見た気がした。

3番目か4番目あたりのセクションで「下図」を集めたブースがあった。ここで見たもの、そして作品以外で自分が感じたことを通して、再度この展覧会を訪れようと思った。

1つは、どこかのセクションにいるとき、誰かが遠くのほうで大きな声を上げているのが聞こえたことだ。発達障害かどうか分からないが、自分より後ろのセクションにいたはずのその声は、いつの間にか消えていた。それで、自分がいつの日か考えていたことを思い出した。ふつう美術作品は美術館の中に展示されていて、それはもちろんあるコンセプトがあってのことだ。だから作品によっては、屋外に展示されるものもある。しかし、そのような文脈の設置そのものを揺るがすような作品を見てみたいと思ったことがあった。普段、美術館の中に収まっている作品を、太陽の下に、あるいは木陰の中に配置することによってどのように印象するか。そのような妄想を思い出したのだ。ちなみに、屋外であれば、誰かが叫んでも館内ほどは響かないだろうなとも思った。

もう1つは、館内を見て回っている中で、メモを取ったりデッサンしている人を何人か見かけたことだ。美術館に行くときには、バッグも持たず、基本的に何も持っていかないので、この時ばかりはこれを後悔した。というか、そのように感じたのも初めてだった。今までは、作品の質に驚愕したり、どうやって描いているのだろうと疑問に感じたりはしても、描いてみようとは思わなかった。

一連の「下図」を見ながら、最初はひたすら感心していた。鉛筆画による細やかなタッチに見とれていた。次第に、その技量をうらやましく思った。人物や花、臓器などの精密な描写に嫉妬した。そして、自分も絵を描きたいと感じていた。驚嘆から嫉妬、そして感染。今までの展覧会では経験したことのない変化が起きていた。それは結果として、帰り際に、横浜そごうのロフトで、「2Bの鉛筆」と「鉛筆削り」と「無地のノート」を買うに至った。

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陰刻された四肢の祭壇 習作 (成山画廊HPより)