数の感触

地球には60億の人間がいる!

そのことを初めて知ったのはいつのことだろう。

中国、12億人!インド、9億人!アメリカ、3億人!日本、1億2千万人!

もちろん、これらの数字は、自分が小学校の時くらいの記憶だから、現在では大きく変っている。

社会の時間に覚えた世界の人口。

ただ漠然と「億」という数を捉えていた子供の頃、例えば「1億円」、例えば「1億回」。

あるいは、「順位」を通して、そのような大きな数それ自体の序列を把握していた。

1位、中国!2位、インド!3位、アメリカ!

 

あるとき、「人の数」というものがリアルに感じられて、圧倒されたことがある。

中学生の頃だっただろうか、新宿駅の雑踏の中を歩いていた。

ひしめき合うほどの人の中を少しずつ進み、改札口の辺りで、ふと、その場を俯瞰しているイメージが頭をよぎった。

その鳥瞰で捉えたのは、おそらく1000人にも満たなかっただろう。

だが、その「数」というものが、単なる1000という数字ではなくて、1人1人の人間の存在を重ね合わせたものとして、ものすごく重厚に感じられたのだ。

それは、もしかしたら、駅で、人の流れの中にいたから知覚されたのかもしれない。

学校の集合写真のように、ある場にとどまって、ある枠内に収まったイメージではなくて、駅の改札の周囲のさらに外側へと人の「数」は続いていき、自分もその中にある。

そのはみ出していくイメージと自分との関係がそのまま「数」になった、という感じだろうか。

そして、そのことから改めて「1億2千万」や「60億」を捉えなおしてみると、いや、捉えようとすると、想像もできない、途轍もないものが待ち受けている感触だけがある。

 

ときどき思い出す、この感触。

同時に、数学者は「数」を実在と感じる、ということについて考えることがある。