吉田松陰全集 第2巻 (岩波書店, 1940) 福堂策

福堂策



http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048648 P.301(コマ番号155/234)





元魏(1)の孝文、罪人を久しく獄に繋ぎ、其の困苦に因りて善思を生ぜしむ。因って云はく、「智者は囹圄(れいご)を以て福堂とす」と。此の説遽(にわ)かに聞けば理あるが如し。書生紙上の論、多く左袒(さたん)する所なり。余獄に在ること久し、親しく囚徒の情態を観察するに、久しく獄に在りて悪術を工(たく)む者ありて、善思を生ずる者を見ず。然らば、滞囚は決して善治に非ず。故に曰く、「小人閑居して不善を為す(2)」と、誠なるかな。但し是れは獄中教なき者を以て云うのみ。若し教ある時は何ぞ其れ善思を生ぜざるを憂へんや。曾(かつ)て米利幹(メリケン)の獄制を見るに、往昔は一たび獄に入れば、多くは其の悪益々甚しかりしが、近時は善書ありて教導する故に、獄に入る時は更に転じて善人となると云う。是くの如くにして初めて福堂と謂うべし。余是(ここ)に於て一策を書す。世道に志ある者、幸に熟思せよ。



一、新たに一大牢獄を営し、諸士罪ありて遠島せらるべき者、及び親類始末に逢いて遠島せらるべき者は、先づ悉(ことごと)く茲(ここ)に入る。内、志あり学ある者を一人を長とす。親類始末のことは余別に論ありて筆録とす。此の策は只今の有様に就いて云うのみ。



一、三年を一限とす。凡(およ)その囚徒、皆出牢を許す。但し罪悪改むることなき者は、更に三年を滞らす。遂に改心なき者にして後、庶人に降し遠島に棄つ。尤も兇頑甚しき者は、三年の限に至るを待たず、是れを遠島に棄つ。是れ皆獄長の建白を主とし、更に検覈(けんかく)を加ふ。



一、長以下、数人の官員を設けざることを得ず。是れ獄長の建白に任すべし。総べて獄中の事は長に委任し、長、私曲あり、或は獄中治まらざる時は専ら長を責む。



一、獄中にては、読書・写字・諸種の学芸等を以て業とす。



一、番人、獄中の人数多少に応じ、五六名を設けざるを得ず。而して共の怠惰放肆(ほうし)の風を巌禁し、方正謹飭(きんちょく)の者を用ふべし。番人は組の者を用ひ、番人の長は士を用ふべし。



一、飲食の事は郡夫に命じ、別に日々監司(後れ付の類)を出し監せしむべし。獄中銭鈔を儲へ、恣(ほしいまま)に物を買ふを巌禁し、各人の仕送り銀は番人中一人を定め、是れを司らしむ。即ち今野山獄の肝煎の如し。



一、獄中断じて酒を用ふることを許さず。酒は損ありて益なし。此の事不易の論あり、茲に贅せず。



一、隔日或は両三日隔てて、御徒士目附を廻し、月に両三度は御目附廻りもあるべし。廻りの時は獄中の陳ずる所を詳聴すべきは勿論なり。



一、医者は毎月三四度廻すべし。若し急病あれば願出で次第、医をして来診せしむべし。



附人の事、湯水の事、江戸獄中の制に倣ふを可なりとす。



一、獄中昼一の制を作り、板に書して楣(はり)に掲ぐべし。



右に論列する所に従って一牢獄を営せば、其の福堂たるも亦大なり。余幸にして格外の仁恩に遇ひて、萬死の誅を減ずることを得。其の身を岸獄に終ふる、固より自ら安んじ自ら分とする所なり。然れども国恩の大、未だ涓埃(けんあい)を報ずるを得ず、深く忸怩する所なり。因りて願ふ、若し新獄の長となることを得ば、或は微力を伸べて萬一を庶幾(しょき)することを得ん。但し囚中、其の才学余に過ぐる者あらば、余も亦敢へて妄りに其の前に居らざるなり。余野山獄に来りてより、日々書を読み文を作り、旁(かたわ)ら忠孝節義を以て同囚と相切磋することを得、獄中駸々(しんしん)()として化に向ふの勢あるを覚ゆ。是れに因りて知る、福堂も亦難からざることを。且つ人賢愚ありと雖も、各々一二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備する所あらん。是れ亦年来人を閲して実験する所なり。人物を棄遺せざるの要術、是れより外復たあることなし。当今動(やや)もすれば人を遠島に処す。余精(くわ)しく在島の容子を聞くに、降して庶人となすよりも甚し、全く百姓の奴隷となるなり。堂々たる士人をして此の極に至らしむること、豈に怱々(そうそう)にすべけんや。故に余は先づ獄に下し、必ず已()むことを得ざるに及んで、然る後遠島に処せんと欲す。是れ忠厚の至りなり。但し放縦は人情の安んずる所にして、厳整は其の厭ふ所なれば、右の如く制を定むる時は必ず悦ばざる者衆(おお)し。然れども、是れに非ざれば福堂の福を成すに足らず。方今庶政維()れ新たに、百弊革(あらた)めざるはなし。独り囚獄の政に於て、未だ至らざるものあるを覚ゆ。故に余故(ことさ)らに私に策すること此くの如し。然れども是れ独り士人の獄法を論ずるのみ。庶人の獄に至りては更に定論あり。今未だ贅するに暇あらず。



安政乙卯(3)六月朔丙夜、是れを野山獄北第一房に於て書す。二十一回猛虎









政を為すの要は、人々をして鼓舞作興して、各々自ら淬励(さいれい)せしむるにあり。若しそれをして法度の外に自暴自棄せしめば、善く政を為すと云ふべからず。而して其の術、賞罰の二柄にあり。賞典は姑(しばら)く措()いて論ぜず、罰を以て是れを論ぜん。方今諸士中、隠居の者、或は禁足し或は遠島し或は拘幽する者、意(おも)ふに幾百を以て数ふべし。余此の輩を視るに、法度外に自暴自棄する者、十常に八九に及ぶ。其の自ら淬励する者の如きは実に十中に一二を得るも亦難しとす。余が福堂策を作る、其の是くの如きを憂ふるなり。而して更に一処置を思ふことあり。近時、洋賊陸梁、勢将(まさ)に事を生ぜんとす。此の時に当りて、勇毅敢死の士最も国に用ありとす。今新たに一令を下して云はく、「凡そ隠居の輩、敢へて自ら暴(そこな)ひ自ら棄つることなかれ。一旦事ある、用いて先鋒に当つべし。果して能く功を立てなば舊秩縁に復すべし」と。若し然らば、幾百人敢死の士、立処(たちどころ)に得べし、亦是れ国家の一便計と云ふべし。余常に近世士道の衰頽(すいてい)を嘆ず。囚となつて以来、益々罪人と居り、又在島人の情態を聴くに、大抵自暴自棄して放縦自ら処り、士道都(すべ)て忘るるに至る。然れども人斯の性なきはなし。斯の性あれ ば斯の情あり、斯の性情ありて而も且つ自棄する、豈に其の甘んずる所ならんや。誠に委靡壊敗(いびかいはい)自ら奮ふこと能はざるに坐するなり。然れども人必ず(おも)はん、彼の輩罪あり、故に廃す、何ぞ又更に起し用ふるに堪へんやと。余窃(ひそ)かに以て然らずとなす。夫は罪は事にあり人にあらず、一事の罪何ぞ遽(にわ)かに全人の用を廃することを得んや。況や其の罪已に悔ゆる、固より全人に復することを得るをや。罪はなほ疾の如きか。目に盲する者、固より耳鼻に害なし。頭に瘡ある者、固より手足に害なし。一処の疾、何ぞ全身の用を廃するに足らんや。其の一処に疾()みて全身従って廃するものは心疾是れのみ。而して心疾豈に人々にあらんや。酒に酗()し色に耽り、貨を貧り力を恃(たの)む、世の所謂大罪なり。而して余は則ち謂(おも)へらく、一事の罪にして未だ其の全人の用を廃するに足らずと。叉是れを禽獣草木の人に於けるに譬(たと)ふ。牛馬言語せずと雖も、載すべし耕すべし。草木行走せずと雖も、棟梁とすべし屋席とすべし。今や人一罪ありと雖も、何ぞ遽かに禽獣草木に劣らんや。要は是れを用ふる如何にあるのみ。有罪の人、固より平時に用ふべからずと雖も、是れを兵戦の場に用ふる時は、其の用を得ると云ふべし。漢時、七科の謫(たく)を発して兵とす。其の意、蓋し亦斯くの如し。是れ余が人を鼓舞作興するの一処置にして、福堂策に附録する所以なり。



余已(すで)に此の論を作りこれを同囚に語る。或ひと曰く、「已めよ、人必ず謂はん、子自らの為めに計るなり」と。余曰く、「之れを計りて国に便するものは、吾れ何ぞ嫌を避けて言はざらん。吾れ之れを言ふに非ざれば則ち誰れか敢へてこれに及ばんや。且つ吾れをして自らの為めに計らしむれば、何を苦しみて身を忘れ法を犯して自ら困蹶(こんけつ)を取らんや」と。或ひと答ふる能はず。因って書す。



乙卯秋九月仲一日



野山獄囚奴寅誌す





(1) 後魏の別称。曹操の建てし魏に対していふ。もと拓跋(たくばつ)を氏とせしも孝文帝の時元と改姓す



(2) 大学に出づ



(3) 安政二年









<現代語訳>





福堂策





元魏(1)の孝文は、罪人を長いあいだ獄に繋ぎ、その苦しみによって善い思いが生じるようにした。したがって、次のように言うことができる「知恵のある者は牢獄を福堂とする」のだと。この説はにわかに聞けば一理あるように思われる。この紙の上の論は、学ぶ者であれば、多くは同意するところだ。私は長いあいだ牢獄の中にいて、親しく囚徒の状態を観察していると、長いあいだ牢獄の中で悪巧みする者がいて、善思を生ずる者を見ない。そうであるから、牢獄に留まっていることは決して善く治めることにはならない。したがってこう言うことだ、「つまらない人間が暇でいると、ろくなことをしない」と、誠なるかな。ただしこれは、獄中で教えがない者に対してのみ言えることだ。もし教えがある時は、善思が生じないことを心配する必要があるだろうか。かつてアメリカの獄制を見ると、昔は一たび獄に入れば、多くはその悪を益々悪くしていたが、近ごろでは善書があり、教え導くことによって、獄に入ると人が転じて善人になると云う。このようなことがあって初めて福堂というべきであろう。私はここにおいて一策を書きしるす。世の道徳に対して志がある者は、よくよく考えてみてほしい。



一、新たに一大牢獄を運営するにあたり、罪を犯して遠島させられる多くの者、及び親類始末に逢って遠島させられる者は、まず悉(ことごと)く茲(ここ)=牢獄に入る。その内、志があり学のある者一人を長とする。親類始末のことは、私は、別に論があるので別途筆録することにする。この策については現在の有様について言うのである。



一、三年を一限とする。だいたいの囚徒については、みな出牢を許す。ただし罪悪を改めることがない者は、更に三年を延長する。それでもついに改心がない者については、身分を下げて遠島に棄てる。もっとも凶悪な者は、三年の限度に至るまで待たず、これを遠島に棄てる。これはすべて獄長の建白=意見陳述を主とし、更に検覈(けんかく)=厳密な調査を加える。



一、長以下、数人の官員を設ける。これは獄長の建白にまかせられるべきである。総べて獄中の事は長に委任し、長が、自己利益を優先し、あるいは獄中が治まらない時は専ら長の責任とする。



一、獄中では、読書・写字・諸種の学芸等を以て業とする。



一、番人は、獄中の人数に応じて、五六名を設ける。これにより獄内の怠惰や勝手の風を巌禁し、行いが正しく真面目な者を活用するべきである。番人は、組の者から選び、番人の長は、士から選ぶべきである。



一、飲食の事は郡夫=地方からの労働者、武家奉公人に命じ、別に日々監司を出して監視させるべきである。獄中で金銭を貯え、恣(ほしいまま)に物を買うことを巌禁し、各人の仕送り銀は番人中一人を定めて、これを管理させる。すなわち今の野山獄の肝煎(きもいり)=二者の間を取り持つ者の如し。



一、獄中断じて酒を用いることを許さず。酒は損はあっても益はないからだ。この事はいつの時代も変わらない考えであり、ここでは贅沢はしないことだ。



一、一日置き或は二日、三日を隔てて、御徒士目附を廻し、月に両三度は御目附廻りもあるべきだろう。廻りの時は獄中の意見陳述を詳しく聴き取るべきは勿論のことだ。



一、医者は毎月三四度廻すべきである。もし急病があれば願い出があり次第、医者を来診させるべきだ。



附人の事、湯水の事、江戸獄中の制度にならうことを可とすべきである。



一、獄中昼一の制を作り、板に書して楣(はり)に掲げるべし。



右に論列する所に従って一牢獄を運営すれば、その福堂たるもまた大なり。私は幸にして格外の仁恩に遇って、萬死の誅を減らしてもらった。その身を岸獄に終えることは、固(もと)より自ら落ち着き自らの身の程とする所であった。しかしながら国恩が大きく、未だほんの僅かながらも報いることができず、深く忸怩たる思いだ。よって、もし新獄の長となることがあればと願う、或は微力を差し伸べる機会を万が一にと願う。ただし囚人の中で、その才能学識が私を超える者がいれば、私もまた敢へてむやみにその者の前に長で居るということはない。私は野山獄に来て以来、日々書を読み文を作り、旁(かたわ)ら忠孝節義を以て同囚と相切磋していて、獄中で周りの者が物凄い速さで変化していく様を見た。これによって、福堂もまた難しくはないということを知ったのだ。なおかつ、人には賢い者もいれば愚かな者もいるといっても、各々が一、二の才能はあるものだし、一つに集めて大きなことを成そうとすれば必ず全員が必要となるであろう。これまた年来、人を見ていて実際に経験したところだ。人物を棄遺しないための要術について、これより外には方法がない。当今、動(やや)もすれば人を遠島に処している。私は精(くわ)しく在島の事情を聞くと、身分を降して庶人となすよりも甚だしく、全く百姓の奴隷となっているようだ。堂々たる士人をこのような極に至らしめること、決してあわただしくやるべきことではない。故に私はまず獄から出して、必ずやむを得ない場合にのみ、然る後に遠島に処するべきと考える。是れ忠厚の至りなり。ただし放縦(規律なく自由)は人情が満足する所であり、厳整(引き締まって整う)はその厭(きら)う所であるから、右の如く制を定める時は必ず悦ばない者が多い。しかし、そうでなければ福堂の福を成すには足らない。今の政治全般、これを新たに、百弊を革(あらた)めないということはないのだ。独り囚獄の政において、未だ至らないものがあることを感じている。故に私がとりわけ密かに考えた策はこのような如くである。しかしながら、これは独り士人の獄法を論じたのみである。庶人の獄に至っては更に定論があるだろう。今は未だ贅するに暇あらず。



185561日夜、是れを野山獄北第一房に於て書す。二十一回猛虎







政を為すことの要諦は、人々を鼓舞し奮い立たせて、各々が自ら努めて励むことにある。もしそれによって禁止事項を破って自暴自棄となれば、善く政を為したというべきではない。したがってその方法は、賞罰の二柄にある。賞典は姑(しばら)く措()いて論じず、罰について論じよう。このごろ諸士の中で、隠居の者は、或は禁足し或は遠島し或は拘幽する者は、私が意(おも)うに何百人と数えるほどいるであろう。私はこの者たちを視るに、法度外に自暴自棄する者、十人中常に八九に及ぶ。自ら努めて励む者は実に十人中に一二いるかも難しいところだ。余が福堂策を作る、それは是くの如きを憂いているからだ。そして更に一つの処置を思うことがある。近ごろ、洋賊陸梁、その勢は将(まさ)に事が生じようとしている。この時に当って、勇毅敢死の士が最も国に必要である。今新たに一令を下して云わく、「凡そ隠居の輩は、敢えて自らを暴(そこな)い自らを棄てることなかれ。一旦事があれば、自らを用いて先鋒に当るべきだ。果してうまく功を立てたならば旧秩縁が回復できるだろう」と。若しそうしたのならば、幾百人におよぶ敢死の士を、立処(たちどころ)に得ることができ、また是れを国家の一便計と云うべきであろう。私は常に近世士道の衰頽(すいてい)を嘆いている。囚となって以来、益々罪人と居り、また在島人の情態を聴くと、大抵自暴自棄となり自ら放縦するようになって、士道を都(すべ)て忘れるに至る。然れども人はかの生まれ持った性質がないということはない。斯の性があれば斯の情(今持っている心情)があり、斯の性情ありて而も且つ自棄する、どうして甘んじてしまわないことがあろうか。誠に意気消沈し、壊れ敗れ潰えている状態で自ら奮うことはできず坐している。然れども人は必ず(おも)うだろう、彼の輩は罪があり、それゆえに廃している、なぜまた更に起用するに堪えられるのかと。私は窃(ひそ)かにそうではないのだと思っている。夫は罪は事にあり人にあるのではない、一事の罪でどうしてにわかに全人の用を廃することができようか。ましてやその罪をすでに悔いている者は、固より全人に回復することができるはずだ。罪は何と言っても疾病の如きものではないか。目が視えない者は、もとより耳鼻に不便はない。頭に瘡がある者は、もとより手足に害はない。一箇所の疾が、何で全身の用を廃するに足るのであろうか。一箇所が病むことで全身がそれに従って廃するものは心疾のみである。したがって心疾は登に人々にあらんや。酒に呑まれ色に耽り、貨を貧り力を頼りにすることは、世のいわゆる大罪である。だから私が思っているにはこういうことだ、一事の罪では未だその全人の用を廃するには足らないのだと。またこれを禽獣草木を人に例えた場合はどうか。牛馬は言葉を語らずとも、荷や人を載せることができ田畑を耕すことができる。草木は行走しないと言っても、棟梁とすることができ屋席とすることができる。今や人が一罪ありと言っても、どうして禽獣草木に劣るということがあろうか。要は彼らを如何にして用いるのかにかかっているのだ。有罪の人は、もとより平時に用いるべきではないと言っても、これを兵戦の場に用いる時は、その用を得ると言うべきであろう。漢の時代、七科の謫(たく)(七種の賤民)を発して兵とした。その意図は、おそらくまた斯くの如くであろう。これが、私が人を鼓舞作興する一つの処置にして、福堂策に附録する所以である。



私はすでにこの論を作りこれを同囚に語った。或ひと曰く、「やめたほうがよい、人は必ず言うだろう、あなたは自らの為に計画しているのだ」と。余曰く、「これを計画して国に役立とうとするのに、私が何で疑いを避けて言わずにいるということがあろうか。私がこれを言わなければ誰が敢えて言うだろうか。そして私が自らの為にこれを計画しているとするならば、何を苦しんで身を忘れて法を犯して自ら窮地に追い込まれるようなことをするのか」と。或ひとは答えることができないだろう。因って書す。



185592



野山獄囚奴寅誌す




吉田松陰全集 第2巻 (岩波書店, 1940) 江戸獄記

江戸獄記

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048648 P.286(コマ番号148/234)

 

毎日、朝六ツ過ぎ戸前(とまえ)を明く。

戸前は出入の口半間なり。二寸五分角程の格子戸あり。外に開く。夜間は内より板戸を立て外にて錠を卸し、叉格子戸へ錠を卸す、二重錠なり。此に戸前を明くと云ふは内の板戸をはずして内へ入るるなり。○此の時は御立合・鍵役、当番所迄来る。当番三四人来り錠を開くなり。凡べて食事湯水等にて戸前を開く時も是れに準ず。

此の時、粥・ネバ・茶・煎湯二種を給す。

粥は願物(ねがいもの)と云う。是れ総人数へ給するに非ず、病人の員数を照し願に因りて是れを給す。故に是れを願物と云ふなり。ネバとは飯汁なり。飯はザル飯なるを以て其の汁を給す。是れ飲料ともなすべく、叉衣物を洗濯するに用ふべし。

茶は揚屋(1)へ給するのみ、他獄へは給せず。

煎湯二種、一種は病人の症に対し各々に給す。一種は御並と称す。是れ獄中陰湿の地にて、疫癘湿瘡(えきらいしっそう)の気流行する故、用心薬の為めに給するなり。煎湯を給する時、御立合・書役(かきやく)、来り監す。以上皆、鍵役は当番所迄来るのみなり。

五ツ時、飯・味噌汁・飲湯を給す。此の時、御立合・鍵役、各々一人来り監す。

飯は一人に、モツソ(物相)一盃なり。モツソとは竹柄杓の柄なきものなり。揚屋中六人、牢中十二人の役人(2)あり、故に其の役人に当り、高く盛りたるを給す。其の他は平盛なり。

飲湯は大田子一盃なり。

御立合と云うは八町堀同心なり。南北町奉行より万事監察の為めに一人ずつ出役せしめ宿直するなり。鍵役は牢屋同心なり。即ち囚獄石出帯刀(しゅうごくいしでたてわき)(3)の支配する所。同心、初めは当番或は書役等を勤む、年功を積みて鍵役となる、獄吏中の重役なり。余在獄の時は六人なり。

 

(すで)にして替合(かわりあい)あり。替合とは当番交代するなり。此の時、鍵役の外皆斉(ひと)しく交代するなり。

当番六人にて一ト番を勤む。外に小頭(こがしら)・世話役あり。当番中にて年功を以て是れに命ず。皆斉(ひと)しく番を勤むるなり。交代の法、後番の世話役及び当番一人、各獄の人数高を片紙に録し手に持し来る。当番云わく、「替り合」。獄中云はく、「若干人」と。是くの如く各獄検査し終り、然る後交代す。此の時、若干人と云ふは、現高を以て対(こた)ふるなり。総べて高を対ふるに、朝高と只今高と両様あり。朝高は朝戸前を明けたる時の数なり。若し早呼出(はやよびだし)等ありて、替り合より前に出づとも拘らず。

食し畢(おわ)る頃、御食事方廻る。日く、「御食事は宜しきか」。又菜代を給する事をも云ふ。 御食事方一人、亦牢屋同心の老いたる者。

菜代は揚屋六人、牢屋十二人の役人へ、各人日に三文を給す。是れを鍵役預り置き買物の料とす。出入の会計を一簿に録し、毎朝食事の時、各獄に向ひて幾銭余りあり不足あることを告ぐ。余、深く獄吏の煩を憚らざるを感ずと云ふ。

(すで)にして買物すべき由にて張番の者来る。台処の夫卒来りて掃除をなす。此の時も当番両三人来る。

買物の料は、菜代及び宿願を以て届け来る所の銭二百文を簿に存し、獄吏是れを預る、是れにて弁ずるなり。買物の件々は、獄中に給し置く所のキメ板と云ふものあり、是れに録して出すなり。キメ板とは、桐の木の厚さ五分幅三寸余長さ二尺五六寸なるものなり。是れへ鈍頭の錐にて字を刻して出すなり。抑々キメ板の用甚だ博し。故に獄中の言に云はく、「キメ板一つにて獄中の治をなす」と。其の用、獄吏に願出ることは悉(ことごと)くキメ板に刻して出す。又獄中にて役を命ずる時、名主、板を携へ出づ。獄中の役(4)、添役以下、皆名主の命ずる所。人を罪し及び人の役を奪ふ時、亦皆板を携へ出づ。罪ある者は、板を以て其の背を打つ。名主・添役の外、擅(ほしいまま)に用ふることを許さず。隅役・二番役、用ふることあれば、添役に就いて是れを借る。板の構様(かまえよう)、名主・添役・隅役・二番役、各々異なり。但し揚屋にては甚だ拘はらず。此の類甚だ繁雑、贅するに及ばず。

四ツ時、湯水を給す。

各獄、湯二田子、水二田子宛なり。揚屋にては、四斗樽二箇を設け、一箇に湯を溜め置き、追々一箇へつぎ足して四斗桶を風呂とす、妙甚し。大牢・
二間牢にては人多くして湯少なし、固(もと)より遍く及ぶこと能はず。尤も朝タの食事にも、飲湯二田子を給すと云ふ。

薬を給す。

六ツ過ぎと異なることなし。

医者来る。

本道医者(5)一人宛留宿する故、急病あれば、朝暮夜間を云はず、願次第来り診す。然れども定(きま)りて来るは此の時なり。此の時は本道二人来る。外療は留宿なし、且つ二日を隔てて来る、一人なり。然れども急病あれば、夜間にても其の宅へ呼びに遣はすなり。牢内に法度書あり、板に記して高く掲ぐ。日々仰ぎ睨(げい)すれども、今其の全文を忘却す。享和中の定むる所かと覚ゆ。其の条中、疾病の事に於て尤も反復是れを言へり。此の一事、余深く感ず。我が野山獄の如きは病ありと雖(いえど)も、治を施すべきの術なし。往昔の流例を聞く、絶食三日を過ぐるに非ざれば敢えて官府に届け出でず、医員を招くことを許さず。二十年来留居の人の云ふ所、皆然り。且つ云はく、「医来ると雖も、扁鵲(へんじゃく)(6)の手に非ざること固よりなれば、安んぞ能く起虢(きかく)(7)の功を奏せんや」。然れども余已(すで)に斯()の身に於て萬々顧惜(こせき)する所なし、豈に敢えて区々一己の為めに是れを言わんや。但だ匹夫の非命、所を得ざる、窃(ひそ)かに伊尹(いいん)の為に是れを(8)()づるのみ。

呼出の者出づる。

呼出とは、両町奉行(9)寺社奉行(10)・御勘定奉行(11)及び加役方(12)へ囚徒を呼出し、罪収を鞠問せらるるなり。尤も呼出の事は、朝戸前の明かぬ前に当番より触れ渡すなり。呼出の時、揚屋に居る身分の者(幕府同心以上、諸家徒士以上)は肩輿に載す、伝馬町の夫卒是れを舁()く。平物(諸家足軽中間の類、及び百姓・町人・無宿物を云ふ)はもつこうに載す、乞食是れをかく。並びに牢屋同心宰領す。但し加役方は、加役方の同心迎ひに来る、呼出の事も朝より知れず、又もつこう(畚=もっこ)にも乗せず、歩行せしむ。尤も重罪人はもつこうに乗す、是れを当りもつこうと称す。

九ツ過ぎ時、ネバを給す。

八ツ時、煎湯・願物等を給す、皆前に同じ。但し此の時は赤小豆粥を給す。是れ獄中の病大抵熱病なるを以てなり。

七ツ時、飯・味噌汁・飲湯を給す、亦前に同じ。

湯水を給す、亦前に同じ。一日再浴、是れ則ち快とすべきのみ。暮前、膏薬を給す。大病人あれば、願に因りて別煎を給する者、此の時持ち来る。余大病、亦別煎を服す。此の薬最も効あるを覚ゆ。渋木生(13)も亦云ふ。

六ツ前、戸前を閉づ。

是れを替合と云ふ、交代すること朝の如し。又カズへとも云ふ。此の時は鍵役・御立合並びに来る。小頭、獄中に入り人数を計ふ、故に力ズへと云ふなり。

夜六ツ時より暁六ツ時迄、一時半時に当番「たく」を撃たせて廻る。六ツ半、暁七ツ半には鍵役廻る。

鍵役廻る時は各獄皆問ふ所あり。云はく、「揚屋(揚屋なれば、第一句に揚屋と云ふ、他之れに同じ)御替りも無きか」。獄中答へて云はく、「今晩高若干人、一同相替りません、難有い仕合(しあわせ)に存じ奉ります」と云ふ。此の高亦現高なり、夜間出入あれば、従つて増減して答ふ。当番の廻る時は、云はく、「揚屋」。答へて云はく、「御ありがたう」と。是れ省文のみ。夜間五ツ時已後(いご)は獄中皆寝に就く。一時一人の夜番不寝の者を置く。夜番の者誤って仮寝(うたたね)することあれば厳に責罰するなり。

江戸の獄、一日の事、大略右の如し。獄中の規制に、至って厳整詳密観るべきもの甚だ多し。今是れを詳かにするに暇あらず。大抵無宿牢には真の牢法あり、百姓牢は半牢法と云ひ、揚屋は無法と云ふ。渋生久しく百姓牢に在り其の法を諳んず。独り渋生(14)を起(たた)して共に其の得失を論ずることを得ざるを惜しむのみ、哀しいかな。

 

附記

湯日と云ふあり。夏月は毎月六度、春秋は五度、冬時は四度なり。此の日朝四ツ時、揚屋は湯四田子(たご)、水二田子なり。但し七ツ時の湯水なし。大牢・二間牢は別に浴室あり、獄を出で浴室に往きて浴す。是れ甚だ牢屋中の者の苦悩を免かれしむるに足る。夏月は涼みと号し、隔日に八ツ時後、外鞘(そとざや)の内に出るを許す。甲の日、口揚屋(くちあがりや)・大牢なれば、乙の日、奥揚屋・二間牢なり。

御廻りと云ふことあり。囚獄石出帯刀(御頭と称す)日々廻る。朝戸前を開きたるより晩戸前を閉づる迄に廻れば、獄中云はく、「申上げます、朝高(あさだか)若干人」と、朝戸前を開きたる時の人数高を云ふなり。其の後、呼出等あり又は新入等ありて、現人数は増減ありとも夫れに拘らず。晩戸前を閉ぢてより六ツ時までの間、暁六ツ時より後戸前を開く迄の間に廻れば、並びに「只今高若十人」と云ふ。此れは現高なり。夜間に廻れば、「申上げます、今晩高若干人、一同相替りません、ありがたい仕合に存じ奉ります」と云ふ。又両町奉行の与力(よりき)、見廻衆(みまわりしゅう)と唱ふる官員あり、是れ亦毎日或は隔日に廻る。獄中云ふこと石出に於けるに同じ。但し夜廻るとも、一同替りませぬ云々の語を云はず。御徒士目付(おかちめつけ)、是れ亦一日はざみ二日挟みには廻る。自ら云ふ、「御手当はよいか、申立つる儀はないか」と云ふ。獄中答へて曰く、「申上げます、平日、表御役人中様より御手当宜しく、御食事・御煎湯に至るまで一同行届きまして、難有い仕合に存じ奉ります」。其の聲の未だ絶えぬ内に、総人数一斉に、「一同………」と大声を発す。御目付廻る時は御徒士目付従行す。呼びて云はく、「御目付衆御廻り、御手当はよいか」云々。(下、同前)答語亦同前。又係りの奉行にて、詮議筋不行届の事あるか、叉久しく呼出なき故呼出を願ふか、何か願ふことあれば右の諸吏廻る時、自ら進みて願ふことを許す。是れを這出願(はいだしねがい)と云ふなり。願終れば諸吏答へて曰く、「聞届けぬ、其の筋に申達すべし」と答ふ。已(すで)にして当番より這出の名前を聞きに来る故、其の姓名、郷貫(郷里の戸籍)、係り奉行の名前と願ふ所の事柄を、キメ板に刻して出すなり。

町奉行、月番に当らぬ方、月に一度廻るなり。此の時は獄中より言はず、鍵役従行し、口揚屋若干人、奥揚屋若干人などと唱ふるなり。

江戸獄には滞囚なきを主とす。故に大獄と雖(いえど)も、大抵六ケ月内に口書(15)を定め、叉六ヶ月内に罪を定む。然れども十二ヶ月に亙(わた)る者甚だ少なし。但し大辟(たいへき)以上は故(ことさら)に遅延することもあり、是れを以て慈悲の一端とす。余、四月十五日を以て獄に下る。時に、囚徒十三人あり。九月十八日出牢迄に一人も残りなく出牢し終わる。其の間、ニ三月、一月、半月、数日にして出入する者、前後通計して五十人にも及ぶなり。何故に滞囚を嫌ふぞと問へば、軽罪の囚を久しく獄に置けば、益々悪事を思案し、悪党の切磋を歴()る、損多くして益少なし。重罪の囚は多く天下有名の大盗巨猾なる故に、或は獄中を騒がし、甚しきは牢脱を計るに至る。是れ亦不便の甚しきものなり。故に罪軽重となく早く出牢せしむるを主とすと云へり。(聞く、発丑の冬、牢脱の事共、其の詳を聞きしが、実に江戸獄は大盗巨猾の会集する所、驚くに堪へたり。)囚徒三百人に充つることは少なし。但し病囚は浅草・品川の両溜(りょうだまり)に居るなり。是れ亦各々二百人に下らずと聞く。然れども其の詳を知らず。伝馬町獄一日の出入、率(おおむ)ね十数人に下らず。病死人、東の二間牢・西の大牢・二間牢甚だ夥(おびただ)し。三牢にて日々三人に下らず。是れ余が親しく視る所なり。揚屋・女牢及び百姓牢には、牢死人甚だ少なし。其の由多緒なりと雖も、人数の多少も亦其の由なり。

御座敷旗本衆の牢・百姓牢・女牢、此の三牢別にあり。今皆空圄(くうご)

 

(獄の間取り図)

 

東二間牢、大略六七八十人。東奥揚、十人より十五六人。女牢、八九人より十三四人。東大牢、三四五十人。東口揚、大略同じ。西大牢、七八九十人。西二間牢、時としては百人にも及ぶ。人数日々不同あれば定言し難し。余が居る時、日々心を付けて是れを視るに因りて、其の大略を云ふことを得。

江戸獄、裏表共に格子なる故、夏月、夜甚だ涼し。且つ日影遠き故、昼日も甚だ熱ならず。冬月は紙にて格子を張りつぶす故、亦甚だ暖なりと云ふ。且つ冬日は参湯を給し、夜間、熱湯を徳()に入れたるを給すと云ふ。夏日の事は余が親しく視る所にして、冬月の事は人に聞く所なり。且つ聞く、寒三十日は夜間粥を給すと。

牢内、法度の品あり、金・銀・歯物・書物・火道具類是れなり。入牢の時は必ず此の事を申渡すなり。然れども牢入あれば、当番等来りて金銀を求む。是れ則ち笑ふべきの甚しきものなり。

盆節には鯖(すし)代・索麺(そうめん)代と号し、各囚に銭二百文を給す。索麺代は奉行所より給す。鯖代は囚獄より給す。正月には雑煮等を給す。是れは其の詳を忘る。

盆節の祭霊の具、八月十五夜、九月十三夜祭月の具、是れは買物料を以て調(とな)へて給す。名主及び添役へ、歳末に銭各々一貫文かを給す。

衣食等、各囚の家より贈るには、家より懸りの奉行所へ願出で、許允(きょいん)の上獄合へ送る。獄舎の書役、其の書附を携へ獄中へ読知せしめ、当人へ渡すなり。獄中より願出る者は、キメ板に刻し当番に出し、書役写し取り奉行所へ達す。奉行所より各囚の家へ授く。各囚の家より贈ること一に上に同じ。

揚屋には働人の為めに附人(つけびと)と号し、百姓牢・無宿牢に居る者、六人以下を入るることを許す。揚屋より人を指して望み取ることも、他故さへ無ければ相叶ふなり。附人の内、名主の心に応ぜざる者は亦牢替も大抵望みの通りなり。且つ揚屋に居るべき身分の者にても、故あれば名主の申立に依りて牢替することもあり。趣に依りては百姓牢等へ預くるなり。是れに囚りて一つの知るべきことあり。諸藩足軽以下は通じて百姓牢に入る、若し身分明白なりざれば無宿牢に入る。(渋生も初夜、無宿牢に入る、明早、百姓牢に転ず。)無宿牢に至りては、人衆(おお)く法厳し。囚徒金なき者、往々死を免かれず。(畳?に十五人十八人を坐するに至る。)若し是れを愍(あわれ)まば早く鍵役輩へ些少(さしょう)の金を与ヘ、揚屋へ附人に入るることを頼むべし。且つ獄中へも些少の金を贈るべし。渋生、無宿牢・百姓牢等に入り、死せざることを得たるものは、奉行所より厚く手当致すべき旨を令せしに囚りてなり。是れを手当囚人と云ふ。(事体重大、必ず尋鞠(じんきく)を要する者は大手当囚人とす。)是れを以て頼みとし、後来獄に陥る者を顧みざる事あれば必ず非命の死を致し、上慈を傷(きずつ)くるに至る、思はざるべけんや。

幕吏財賄に耽る、賤(いや)しむべきの甚しきと雖も、其の然諾(ぜんだく)を重んずるは則ち嘉(よみ)すべし。奉行所より手当の命あるか、頭石出帯刀より頼むかすれば、獄吏輩も丁寧に是れを処する故、獄中にても決して忽(ゆるが)せにはせぬなり。其の他、御立合・見廻り等へ託するも亦可なり。尤も可なるは鍵役に若()くはなし。何となれば、牢替等の事は鍵役の取行ふ所なればなり。抑々獄中の法、立引と号し、人の頼託を受けたる囚人は名主以下決して忽せにはせぬなり。手当囚人は勿論、諸吏の託する所、及び有名の侠客・博徒の託する所等に至る迄、皆然り。黄金多からざれば顧みざること獄中の風と雖も、徒らに黄金ありて頼託なき者は亦甚だ顧みざるたり。

毎歳七月十二日、満獄の囚徒、悉く髪を薙(から)せしむ。髪結は江戸中の床屋、役目にて出るなり。遠島の者、出帆前日亦髪を薙せしむ。平日は結髪、平人に異なることなし。但だ髪を剃らざるのみ。加役方(火付盗賊改、放火犯の取り締まり)よりは油代毎月幾銭を給す、他の三奉行は是れなし。

 

(1)士分の未決囚を入れ置く処

(2)牢内は囚人の自治制を認む。囚人中より選ばれし者、名主・添役等をいう

(3)獄吏の職名、俗に囚獄奉行又は牢奉行ともいう

(4)囚人自治制上の役をさす

(5)漢方医の方で内科医者をさしていう

(6)支那戦国時代の名医

(7)魏国の太子死す。扁鵲遂に蘇生せしむと云う伝説より出づ

(8)殷の湯王に仕えし賢相。天下を以て己が任となし、一夫も所を得ざれば、これ予の罪なりと曰ふ。孟子は彼れを聖の任なる者と称す

(9)江戸南北町奉行にして評定所の職員

(10)寺社及びその領地、関八州(江戸時代の関東地方の呼称)以外の私領に関する訴訟事件を処理す。他の奉行に比してその位高し

(11)公事方・御勝手方の二つに分かれ評定所の裁判に関係を持ちしは公事方の方にて、全国の御料と関八州私領内の民事刑事を処理す

(12)火付盗賊改方をいふ。江戸市中を巡回して放火・盗賊・博打の三罪人を逮捕し裁判す

(13)金子重之助の変名

(14)渋木生即ち金子重之助はこの年正月十一日萩の岩倉獄にて病死す

(15)被告人の口供陳述書

 

<現代語訳>

毎日、朝六時過ぎに戸前を開ける。

戸前は出入口が半間(91cm)の幅である。二寸五分(7.6cm)角程の格子戸がある。外に開く。夜間は内から板戸を立てて外で錠をかけ、また格子戸にも錠をかける、すなわち二重錠となっている。ここで戸前を開けるというのは、内の板戸をはずして内へ入れることである。○此の時は御立合・鍵役が、当番所まで来る。当番が三、四人来て錠を開く。食事、湯水等を運ぶために戸前を開く時もすべてこれに準ずる。

此の時、粥・ネバ・茶・煎湯二種を配給する。

粥は願物(ねがいもの)という。これは総べての人へ配給するのではなく、病人の数を照合して願出があれば配給する。故にこれを願物という。ネバとは飯汁のこと。飯はザルで研いだ飯なのでその研ぎ汁を配給する。これは飲料としても使い、また衣類を洗濯するのにも用いる。

茶は揚屋(1)へ配給するのみで、他獄へは配らない。

煎湯(せんとう)は二種類あり、一種は病人の症状に対して各々に配給する。もう一種は御並と称する。これは獄中が陰湿の地であり、疫癘湿瘡(えきらいしっそう)の気が流行するので、用心薬のために配給する。煎湯を配給する時、御立合・書役(かきやく)が来て監視する。以上のすべてにおいて、鍵役は当番所まで来るだけである。

八時、飯・味噌汁・飲湯を配給する。この時、御立合・鍵役が、各々一人ずつ来て監視する。

飯は一人につき、モツソ(物相)一盃。モツソとは竹柄杓の柄がないものである。揚屋の中で六人、牢中で十二人の役人(2)がいて、それらの役人に対しては、高く盛った飯を配給する。その他の者たちは平盛である。

飲湯は大田子一盃。

御立合と云うのは、八町堀同心(同心は江戸幕府の下級役人のひとつ。与力の下にあって庶務・見回などの警備に就いた)のことである。万事を監察するために、南北町奉行から一人ずつ出役させ宿直させる。鍵役は牢屋同心である。すなわち囚獄石出帯刀(しゅうごくいしでたてわき)(3)の支配する所だ。同心は、初めは、当番あるいは書役等を勤めて、年功を積んで鍵役となる、獄吏中の重役である。余が在獄していた時は、六人いた。

やがて替合(かわりあい)がある。替合とは当番交代することである。この時、鍵役のほかは皆斉(ひと)しく交代する。

当番六人で一回の番を勤める。ほかに小頭(こがしら)・世話役がいる。当番の中で年功者がこれに命じられる。皆(四人?)が斉(ひと)しく番を勤める。交代の方法は、後番の世話役及び当番一人が、各獄の人数高を片紙に記録して手に持って来る。当番が「替り合」と言う。獄中では「若干人」と言う。このようにして各獄の検査が終わり、その後に交代する。この時、若干人と云うのは、現高でもって答える。総べて高を答えるときは、朝高と只今高の両方がある。朝高は朝、戸前を明けた時の数。もし(奉行所から)早呼出(はやよびだし)等があって、替り合より前に出てしまったとしても関係なく、只今高を現高として答える。

食べ畢(おわ)る頃、御食事方が廻る。日く、「御食事は宜しきか」。また野菜代を配給する事も伝える。 御食事方は一人で、牢屋同心の老いた者がこれにあたる。

菜代は揚屋の六人、牢屋の十二人の役人へ、各人に対して日に三文を渡しておく。これを鍵役が預り置いて買物の料金とする。出入の会計を一帳簿に記録し、毎朝食事の時、各獄に向って幾銭余りがあり、不足がいくらあるかということを告げる。私は、獄吏が面倒なことをためらわず実行するのに深く感動している。

やがて買物をするために張番の者が来る。台処の夫卒が来て掃除をする。この時も当番両三人が来る。

買物の料金は、菜代及び宿願を届けて来た銭二百文を帳簿に保存して、獄吏がこれを預かり、これで工面する。買物の件は、獄中に配給しておく所のキメ板というものがあり、これに記録して出す。キメ板とは、桐の木の厚さが五分、幅三寸余、長さ二尺五六寸(1.5x9.1x77cm3)なるものだ。これに対して鈍頭の錐で字を刻印して提出する。そもそもキメ板の用途はとても広い。故に獄中の言として、「キメ板一つにて獄中の治をなす」と言われる。その用途で、獄吏に願出ることは悉(ことごと)くキメ板に刻んで出す。また獄中で役を命ずる時は、名主が、板を携へて出る。獄中の役(4)は、添役以下はみな、名主が命じて決まる。人を罪し人の役を奪う時にはすべて、板を携へて出る。罪ある者は、板でその背を打たれる。名主・添役のほかは、擅(ほしいまま)(キメ板を)用いることは許されない。隅役・二番役が、用いることがあれば、添役に就いてこれを借りる。板の構様(かまえよう)、名主・添役・隅役・二番役、各々で異なっている。ただし揚屋では特にこだわらない。この類のことはたいへん繁雑であり、必要以上のことを言うには及ばない。

午前十時、湯水を配給する。

各獄で、湯二田子、水二田子ずつ。揚屋では、四斗(72L)樽二箇を設け、一箇に湯を溜め置き、追々一箇へつぎ足して四斗桶を風呂とする、妙甚し。大牢・ 二間牢では人が多くて湯が少ない、もとより全ての人が風呂に入ることはできなかった。尤も朝タの食事にも、飲湯二田子を配給するという。

薬を配給する。

朝六時過ぎの場合と異なることはない。

医者が来る。

本道医者(5)一人ずつ留宿する故、急病人があれば、朝暮夜間をいわず、願があり次第来て診断する。けれども定期的に来るのはこの時だけだ。この時は本道二人が来る。外療(外科医)は留宿しない、かつ二日を隔てて一人だけが来る。けれど急病人があれば、夜間でも医者の家へ呼びに遣わせる。牢内に法度書があり、板に記して高く掲げている。日々仰ぎ睨(げい)すれども、今その全文を忘却してしまった。享和(1801年から1804年まで)中に定められた所かと覚えている。その条中で、疾病の事についてもっとも繰り返してこれを言っていた。この一事に、私は深く感じ入った。我が野山獄の如きは病ありと雖(いえど)も、治を施すべき術がなかったのだ。往昔の流例(=慣例)を聞くと、絶食三日を過ぎているのでなければ敢えて官府には届け出ず、医員を招くことを許さなかった。二十年来留居している人の言う所によれば、皆その通りだと。かつ云はく、「医者が来ると雖も、扁鵲(へんじゃく)(6)の手によるものでないのであれば、どうして起虢(きかく)(7)が息を吹き返すということがあろうか」。そうであっても私は已(すで)に斯()の身に於て、充分に大切にする所はなく、決して敢えて取るに足らないような自分一人ごときのために是れを言っているのではない。ただ卑しいこの私は思いがけず、適所を得られないことに、伊尹(いいん)(8)のためもあってひそかに恥ずかしく思っている。

呼出の者が出てくる。

呼出とは、両町奉行(9)寺社奉行(10)・御勘定奉行(11)及び加役方(12)のもとへ囚徒が呼び出され、罪収を鞠問(きくもん=問いただす)させられることである。尤も呼出の事は、朝戸前の明かないうちに当番より触れ渡される。呼出の時、揚屋にいる身分の者(幕府同心以上、諸家徒士(しょかかち)以上)は肩輿(かたこし=かご)に乗せて、伝馬町の夫卒がこれを舁()く=かつぐ。平物(諸家足軽中間の類、及び百姓・町人・無宿物のことを云ふ)は畚(もっこ=かご)に乗せて、乞食が是れをかつぐ。並びに牢屋同心が宰領(さいりょう=取り締まり)する。ただし加役方は、加役方の同心が迎えに来て、呼出の事も朝に知らされず、もっこにも乗せず、歩行させる。もっとも、重罪人はもっこに乗せるが、これを当りもつこうと称する。

十二時過ぎ、ネバを配給する。

午後二時、煎湯・願物等を配る、すべて前述の通り。ただしこの時は赤小豆粥を配給する。これは獄中の病が大抵熱病によるものであるからだ。

午後四時、飯・味噌汁・飲湯を配給する、これまた前に同じ。

湯水を給する、また前に同じ。一日のうち再度湯水を浴びられることは、快いことと思うべきであろう。暮前、膏薬を配給する。大病人あれば、願によって別煎を配る者が、この時に持って来る。私は大病になって、別煎を服用した。この薬が最も効果があったことを覚えている。渋木生(13)もまたそう言っていた。

夕方六時前、戸前を閉じる。

これを替合という、交代することは朝の時と同じ。又カズへともいう。この時は鍵役・御立合並びに来る。小頭、獄中に入り人数を計える、故に力ズへというのだ。

夜六時より暁六時まで、一、二時間ごとに当番に「たく」を撃たせて廻る。夜七時、暁五時には鍵役が廻る。

鍵役が廻る時は、各獄で皆が問うことがある。云はく、「揚屋(揚屋なれば、第一句に揚屋と云ふ、他之れに同じ)御替りも無きか」。獄中答へて云はく、「今晩高若干人、一同相替りません、ありがたい仕合(しあわせ)に存じ奉ります」と云ふ。この高は現高であって、夜間に出入があれば、増減させて答える。当番が廻る時は、云はく、「揚屋」。答へて云はく、「御ありがとう」と。これは省文(省略した言葉)だけである。夜八時以後は獄中皆寝に就く。一時(二時間に)一人の夜番不寝の者を置く。夜番の者が誤って仮寝(うたたね)することがあれば厳に責罰する。

江戸の獄、一日の事は、大略右のようなものである。獄中の規則は、至って厳整で詳密であり観るべきものが大変多いと思う。今これについて詳細を述べる暇はあらず。大抵、無宿牢には真の牢法があり、百姓牢は半牢法といい、揚屋は無法という。渋生は長いあいだ百姓牢に在り、其の法を諳(そら)んじていた。独り渋生(14)を目覚めさせて、共に其の得失を論ずることができないことを惜しむのみ、哀しいかな。

 

附記

湯日と言われるものがある。夏月は毎月六度、春秋は五度、冬時は四度ある。この日の朝十時、揚屋は湯四田子、水二田子。ただし午後四時の湯水はない。大牢・二間牢は別に浴室あり、獄を出で浴室に行って浴びる。これ甚だ牢屋中の者の(人数が多すぎることに関する)苦悩を免がれるのに充分である。夏月は涼みと号し、隔日に二時になると、外鞘の内(格子戸のあいだのスペース)に出ることが許される。甲の日は、口揚屋・大牢であり、乙の日は、奥揚屋・二間牢である。

御廻りと言われるものがある。囚獄石出帯刀(御頭と称す)が日々廻る。朝、戸前を開いてから、晩、戸前を閉じるまでに廻ったときに、獄中云はく、「申上げます、朝高若干人」と、朝、戸前を開いた時の人数高を伝える。その後、呼出等があり、または新入等があって、現人数に増減があったとしてもそれにはこだわらない。晩、戸前を閉じてから午後六時までの間、暁六時から戸前を開くまでの間に廻ったとき、並びに「只今高若十人」と伝える。これは現高である。夜間に廻れば、「申上げます、今晩高若干人、一同相替りません、ありがたい仕合に存じ奉ります」と言う。また両町奉行の与力、見廻衆と呼ばれる官員がいて、これまた毎日あるいは隔日で廻る。獄中に対して伝えることは石出の場合と同じである。ただし夜廻ったときも、一同替りませぬ云々の語は言わない。御徒士目付(おかちめつけ)、これまた一日はざみ二日挟みで廻る。自ら云ふ、「御手当はよいか、申立つる儀はないか」と云ふ。獄中答へて曰く、「申上げます、平日、表御役人中様より御手当宜しく、御食事・御煎湯に至るまで一同行届きまして、ありがたい仕合に存じ奉ります」。その聲(こえ)の未だ絶えない内に、総人数が一斉に、「一同………」と大声を発する。御目付が廻る時は御徒士目付が従行する。呼びて云はく、「御目付衆御廻り、御手当はよいか」云々。(下、同前)答語亦同前。また係りの奉行にて、詮議筋不行届の事あるか、また長い間呼出がないが呼出を願うか、何か願うことがあれば右の諸吏が廻る時、自ら進んで願うことを許す。これを這出願(はいだしねがい)という。願終れば諸吏答へて曰く、「聞届けぬ、其の筋に申達すべし」と答ふ。やがて当番から這出の名前を聞きに来るので、その姓名、郷貫(郷里の戸籍)、係り奉行の名前と願う所の事柄を、キメ板に刻して出す。

町奉行、月番に当らない方は、月に一度廻る。この時は獄中からは言わずに、鍵役が従行して、口揚屋若干人、奥揚屋若干人などと唱える。

江戸獄では滞囚がないことを第一としている。故に大獄と雖(いえど)も、大抵六ケ月以内に口書(15)を定め、また六ケ月以内に罪を定める。然れども十二ケ月に亙(わた)る者はたいへん少ない。ただし大辟(たいへき、重い刑罰)以上は故(ことさら)に遅延することもあり、これを以て慈悲の一端とする。余、四月十五日を以て獄に下る。時に、囚徒十三人がいた。九月十八日に出牢する迄に一人も残りなく出牢し終わる。その間、二、三月、一月、半月、数日にして出入する者、前後通計して五十人にも及んだ。何故に滞囚を嫌うのかと問えば、軽罪の囚を長く獄に置けば、益々悪事を思案して、悪党の切磋(悪巧み)を歴()てしまうので、損が多くて益が少ない。重罪の囚はその多くが天下有名の大盗巨猾であるが故に、あるいは獄中を騒がし、甚しきは牢脱を計るに至る。これもまた不便の甚しきものなり。故に罪の軽重となく出来る限り早く出牢させることを主とするのである。(聞いた話だが、発丑(1853)の冬、牢脱の事共、その詳細を聞いたところ、実に江戸獄は大盗巨猾の会集する所で、たいへん驚いた。)囚徒三百人が満員になることは少なかった。ただし病囚は浅草・品川の両溜(病人の保護施設)に居るということ。これもまた各々二百人に下らずと聞く。然れども其の詳は知らない。伝馬町獄で一日の出入り、率(おおむ)ね十数人に下らず。病死人、東の二間牢・西の大牢・二間牢は甚だ夥(おびただ)しい。三牢にて日々三人に下らず。これは余が直接見たところだ。揚屋・女牢及び百姓牢には、牢死人がたいへん少ない。その原因は様々あると雖も、人数の多少もまたその理由であろう。

御座敷旗本衆の牢・百姓牢・女牢、此の三牢別にあり。今は皆空いている。

 

(獄の間取り図)

 

東二間牢、大略六七八十人。東奥揚、十人より十五六人。女牢、八九人より十三四人。東大牢、三四五十人。東口揚、大略同じ。西大牢、七八九十人。西二間牢、時としては百人にも及ぶ。人数は日々同じではないのではっきりした数字は言い難い。余が居る時、日々注意してこれを視ることによって、その大略を言うことができた。

江戸獄は、裏表が共に格子なので、夏、夜は甚だ涼しい。かつ日影が広いので昼も甚だ熱くはならない。冬は紙で格子を張りつぶすので、また甚だ暖かいという。かつ冬は参湯を配給し、夜間、熱湯を徳()に入れたものを配給するという。夏日の事は余が直接見たところで、冬月の事は人に聞いたところだ。かつ、寒三十日(かんみそか、寒の入り=一月初旬から節分までの三十日間)は夜間、粥を配給すると聞く。

牢内、法度の品があり、金・銀・歯物・書物・火道具類がこれである。入牢の時は必ずこの事を申し渡す。けれども牢入があれば、当番等が来て金銀を求める。これ則ち笑ふべきの甚しきものなり。

盆節には鯖(すし)代・索麺(そうめん)代と号し、各囚に銭二百文を配る。索麺代は奉行所から配られる。鯖代は囚獄から配られる。正月には雑煮等を配給する。これはその詳細を忘れた。

八月十五日夜、盆節の祭霊の具や、九月十三日夜の祭月の具、これは買物料を調整して給する。名主及び添役へ、歳末に銭各々一貫文かを給する。

衣食等を、各囚の家から贈るには、家より懸りの奉行所へ願出で、許允(きょいん)の上獄合へ送る。獄舎の書役、その書附を携へて獄中へ読知させて、当人へ渡す。獄中より願出る者は、キメ板に刻んで当番に出し、書役が写し取って奉行所へ届ける。そして奉行所から各囚の家へ授ける。各囚の家から贈る場合も上に同じである。

揚屋には働人のために附人(つけびと)と号し、百姓牢・無宿牢に居る者、六人以下を入らせることを許している。揚屋より人を指して望み取ることも、他の事情さえ無ければ叶う。附人の内、名主の心に応ぜざる者はまた牢替も大抵望みの通りなり。かつ揚屋に居るべき身分の者でも、故あれば名主の申し立てに依って牢替することもある。事情に依っては百姓牢等へ預かることもある。これに囚って一つの知るべきことがある。諸藩足軽以下は通じて百姓牢に入るが、もし身分が明白でないならば無宿牢に入る。(渋生も初夜、無宿牢に入る、明早、百姓牢に転ず。)無宿牢に至っては、人が衆(おお)くて法が厳しい。囚徒で金がない者は、往々死を免がれない。(畳?に十五人十八人を坐するに至る。)もしこれを哀れに思うのならば早く鍵役輩へいくらかの金を与えて、揚屋へ附人として入ることを頼むべきである。かつ獄中へも些少の金を贈るべきだ。渋生は、無宿牢・百姓牢等に入って、死なずにいることができたのは、奉行所から厚く手当致すべき旨を命令されていたことによるのだ。これを手当囚人と言う。(事体重大、必ず尋問を要する者は大手当囚人という。)これを以て頼みとして、後から来て獄に陥る者を顧みない事があれば必ず思いがけない死に致り、上の人が持つ慈しみの感情を傷つけるに至ることを、思わずにいられるだろうか。

幕吏が財賄に耽るのは、賤(いや)しむべきこと甚だしいと雖も、いったん引き受けたことは約束を守って実行するので良しとすべきであろう。奉行所より手当の命があるか、頭石出帯刀より頼むかをすれば、獄吏輩も丁寧にこれを処する故、獄中でも決して忽(ゆるが)せにはしない。その他、御立合・見廻り等へ託すこともできる。もっともその融通の程度は鍵役のそれには及ばない。何となれば、牢替等の事は鍵役の取り行なう所であるからだ。そもそも獄中の法、立引と号し、人の頼託を受けた囚人は名主以下決して忽せにはしないのだ。手当囚人は勿論、諸吏の託する所、及び有名の侠客・博徒の託する所等に至るまで、皆然り。黄金を多く持っていない場合に顧みられないのが獄中の風と雖も、徒らに黄金があるだけで頼託がない者は甚だ顧みられないのだ。

毎歳七月十二日、満獄の囚徒、悉く髪を刈られる。髪結は江戸中の床屋が、その役目を引きうける。遠島の者は、出帆前日にまた髪を刈られる。平日は結髪、平人に異なることはない。ただ髪を剃らないだけである。加役方(火付盗賊改、放火犯の取り締まり)からは油代が毎月幾銭を渡されるが、他の三奉行からはない。

 

吉田松陰全集 第1巻 (岩波書店, 1940) 猛省録

猛省録

従来惟(た)だ見る、何渉(1)学士、案上惟だ一書を置きてこれを読み、首(はじめ)より尾(おわり)に至るまで錯字を正校し、未だ巻を終えざれば誓って他書を読まず。これ学者の難しとする所なり。

范仲淹(はんちゅうえん)(2)、南部に之(ゆ)き学舎に入り、一室を掃いて昼夜講誦す。その起居飲食、人の堪えざる所、而も自ら刻(つと)めて益々苦しむ。居ること五年、大いに六経(『詩』・『書』・『礼』・『楽』・『易』・『春秋』)の旨に通ず。

洵(3)、少年にして学ばず、生れて二十五歳(4)、始めて書を読むを知り、其の後困(くる)しむこと益々甚だし。然る後古人の文を取りて之れを読み、始めて其の言を出し意を用うるもの己れと大いに異なるを覚(さと)る。時に復た内に顧みて其の才を思えば、則(すなわ)ち叉夫(か)の遂に是(ここ)に止まるのみならざるものに似たり。是れに由(よ)り尽(ことごと)く其の当時為(つく)る所の文数百篇を焼き、論語孟子・韓子(5)及び其の他の聖人賢人の文を取り、而して兀然端座(こつぜんたんざ)、終日以て之れを読むこと七八年なり。

胡瑗(こえん)(6)、布衣(ほい)の時、孫明復・石守道と同じく書を泰山に読む。攻苦淡を食い、終夜寝ねず。一座十年にして帰らず。家問(7)を得て、上に平安の二字あれば、即ち之れを澗中(かんちゅう)に投じ、復た展読せず。

范仲淹、南部の学舎に処(お)り、昼夜苦学して未だ嘗(かつ)て衣を解きて寝に就かず。夜或は昏怠すれば、輙(すなわ)ち、水を以て面に沃(そそ)ぐ。

以西把尼亜(イスパニヤ)の古賢、多斯達篤(8)と曰うもの書を著わすこと尤も多し。寿(とし)僅かに五旬有二。著わす所の書籍、始め生れてより卒するに至るまでに就きて之れを計るに、一日ごとに当(まさ)に三十六章を得べし。毎章二千余言、尽く奥理に属す。後人彼れの像を絵にし、両手に各々一筆を持たしむ。其の勤敏を章(あら)わすなり。

王荊公(9)、初めて及第して僉判(せんはん)となる。書を読むごとに旦(あした)に達するに至り、略(ほ)ぼ仮寐(かりね、うたたね)す。日已(すで)に高く急に府に上り、多くは盥漱(かんそう)せず。

呉奎(ごけい)(10)、始め小吏たり。昼は則(すなわ)ち公事を治め、夜は輙(すなわ)ち書を読み、寝ねざること二十余年。

陽城(11)、性学を好むも、貧にして書を得る能(あた)わず。乃(すなわ)ち求めて集賢(12)の写書吏となり、官書を窃(ぬす)みて、之れを読み、昼夜出でざること六年、乃ち通ぜざる所なし。

司馬公(13)幼時、記誦人如かざるを患う。群居講習し、衆兄弟既に誦を成し遊息するに、独り帷を下して編を絶ち、能く倍誦(14)するに迨(およ)んで乃ち止む。力を用うること多きものは功を収むること遠く、其の精誦する所は乃ち終身忘れざるなり。公嘗て言えらく、書は誦を成さざるべからず。或は馬上に在り、或は中夜寝られざる時、其の文を詠じ、其の義を思えば得る所多しと。

董仲舒(とうちゅうじょ)(15)、春秋を治むるを以て孝景の時博士となる。帷を下して講誦し、或は其の面を見るなし。蓋し舎園を観ざること三年、其の精なること此くの如し。

柳子厚(りゅうしこう)(16)、永州の司馬に貶(へん)せらる。居閑にして益々自ら刻苦し、記覧を務め、詞章を爲(つく)り、汎濫停蓄(はんらんていちく)、深博にして涯涘(がいし)なきを為す、而して自ら山水の間に肆(ほしいまま)にす。

太孺人(17)、中歳にして寡居し、日夜一子の建立の時あるをまつ、厳として愉色なし。即(も)し従遊の士しばしば来り、殿卿また往々牘(かきもの)を輟(や)めて之れを迎え、終日帷を下して誦するを得ざるときは、太孺人始めは猶お客に対するがごとく、詳(つまびら)かに殿卿を呵責することを為し、之れを久しうして従遊の士復た謝絶せざるときは、太孺人則ち扃鑰(けいやく)もて門戸に持(じ)し、気を盛んにし辞(ことば)を??まし、鞅々(おうおう)として諸子を去らしむ。故を以て殿卿択交なし。許邦才

天下の事、小大となく皆上(18)に決す。上、衡石を以て書を量るに至る。日夜呈(19)あり、呈に中(あた)らざれば休息するを得ず。秦始皇

毎日定課あり。鶏鳴して起きてより終日写閲して小齋を離れず、倦めば則ち枕に就く。既にさむれば即ち興(お)き、肯(あ)えて枕上に偃仰(えんぎょう)せず。毎夜必ず行燈を床側に置き、自ら提げて案に就く。陳瓘(ちんかん)(20)

匡衡(きょうこう)(21)、学を好めども家貧しければ、庸作(ようさく)して以て資用に供す。尤も精力人に過絶す。衡、学を勤むるに燭(ともしび)なし。隣舎に燭あれども逮(およ)ばず。衡、壁を穿ちその光を引きて之れを読む。

邑(オウ)の大姓文不識(22)は家富みて書多きに名あり。衡乃ち其れがために客作して償を求めず、書を得て遍く之れを読まんことを願う。遂に大学を成す。

孫敬(23)、常に戸を閉じて書を読む。睡(まどろ)めば則ち縄を以て頸に繋げ、之れを梁上に懸く。

愈(24)の為る所、自ら其の至ること猶お未だしきを知らざるなり。然りと雖も之れを学ぶこと二十余年。始めは三代・両漢の書に非ざれば敢えて観ず、聖人の志に非ざれば敢えて存せず、処(お)るに忘するが如く、行くに遺するが若(ごと)く、儼乎(がんこ)として其れ思うが若く、茫乎(ぼうこ)として其れ迷うが若し。

秦王(25)、館を開き、以て文学の士を延(ひ)く。

杜如晦(とじょかい)
房玄齢(ぼうげんれい)
虞世南(ぐせいなん)
褚亮(ちょりょう)
姚思廉(ようしれん)
李玄道(りげんどう)
蔡允恭(さいいんきょう)
薛元敬(せつげんけい)
顔相時(がんそうじ)
蘇勗(そきょく)
于志寧(うしねい)
蘇世長(そせいちょう)
薛収(せつしゅう)
李守素(りしゅそ)
陸徳明(りくとくめい)
孔頴達(こうえいたつ)
蓋文達(がいぶんたつ)
許敬宗(きょけいそう)

を文学館の学士と為す。分ちて三番と為し、更日直宿せしむ。王、暇日には(すなわち)館中に至りて文籍を討論し、或は夜分に至る。閻立本をして像を図せしめ、褚亮をして賛を為(つく)らしむ。十八学士と号す。唐太宗

今年四月、余、江戸より帰り、一室に屏処(へいしょ)す。日々古人の書を取りて之れを読み、始めて古人の深厚該博、大いに己れに異なるを知る。徐(しづ)かに其の為す所を観、其の由る所を考うるに、唯だ勤むるのみ。因って一冊子を置き、書を閲し古人の学に勤むる者に遇うごとに、必ず之れを摘録し、且つ名づくるに猛省を以てす。名づくる所以はすなわち録する所以なり。近日、友人井上壮太(26)、剣を阪東に学ばんとす。乃ち一冊を改写してはなむけと為す。蓋し其の亦察を此に致さんことを欲すればなり。若し録する所皆屏処読書者の事、三千里外に往来して剣を学ぶものと、初めより交渉なしと曰わば、吾れ則ち曰わん、書や剣や階のみ府のみ、階は堂に非ず、而して府は財に非ず。士の士たる所以は書に非ざるなり、剣に非ざるなり。然り而して業博(ひろ)く惟だ勤むるのみと。録するもの僅かに二十条、未だ敢えて博考窮捜せず。然れども熟読深思せば、亦所謂(いわゆる)扑(ぼく)(27)の教刑たるよりも厳なるものあらん。

壬子九年(?)

松陰蓬頭子識す

(1)字は済川、宋の南?の人。六経百家より山経地
(2)字は希文、宋の呉県の人。兌
(3)字は明允、老泉と号す。
(4)一説に二十七歳という
(5)韓退之
(6)字は翼之、宋の海陵の人。
(7)家より来る手紙。平安のことを知ればあとは用なしとして読まざりしなり
(8)不明
(9)王安石
(10)字は長文、宋の北海の人。
(11)唐の徳宗の朝に諌議大夫となり韓愈の争臣論の矢面に立ちしはこの人なり。
(12)集賢殿書院、唐の玄宗開元十三年、これを長安及び洛陽に置く
(13)温公、朱の仁宗・英宗・神宗・哲宗に歴任す。哲宗の時相となる
(14)暗誦
(15)漢の学者、武帝の時賢良策を以て江都の相たり、後に膠西王の相たり
(16)唐の柳宗元、子厚は字なり。
(17)許邦才の母なり。邦才は明の?城の人、字は殿卿
(18)始皇をさす
(19)程に同じ、予定の分量の意
(20)宋の学者、紹聖の始め太学博士たり、後に諌官となり蔡京の用うべからざるを極言す。
(21)漢の東海の人、人に雇われて苦学す。
(22)文は姓、不識は名。
(23)漢の信都の人、字は文賓。
(24)韓退之
(25)唐の太宗、初め秦王たり
(26)長藩士井上興(与)四郎の嫡男
(27)扑は打つこと

 

<現代語訳>

これまでのことを見てみると、何渉学士、机の上にただ一書を置いて読み、首(はじめ)より尾(おわり)に至るまで誤植を校正し、巻を読み終わらないうちは誓って他書を読まなかった。これは学ぶ者の難しいとする所なり。

范仲淹(はんちゅうえん)、南部に之(ゆ)き学舎に入り、部屋を掃除し、何時でも声を出して読書をする。その日常生活や飲食、人が堪えられない所も、自ら刻(つと)めて益々苦しむ。居ること五年、大いに六経(『詩』・『書』・『礼』・『楽』・『易』・『春秋』)の主旨を理解する。

洵、少年にして学ばず、生れて二十五歳、始めて書を読むことを知り、其の後困(くる)しむこと益々甚だし。然る後古人の文を取って読み、始めてその言葉の表現や意味の使い方が己れと大いに異なるを覚(さと)る。時に復た自分を顧みてその才を思えば、ここで止まっているわけにはいかないと考えたようだ。これにより、ことごとくその当時つくった文数百篇を焼き、論語孟子・韓子及び其の他の聖人賢人の文を取り、そうして姿勢を保ち、きちんと座り、終日以て之れを読むこと七八年なり。

胡瑗(こえん)、布衣(ほい)の時、孫明復・石守道と同じく書を泰山で読む。苦しい境遇ながら攻苦淡を食い、終夜寝なかった。一座十年にして帰らず。家からの手紙を受け取っても、上に平安の二字が書いてあれば、この手紙を谷間に投げ入れて、再び拡げて読むことはしなかった。

范仲淹、南部の学舎に処(お)り、昼夜苦学して未だ嘗(かつ)て衣を解きて寝に就かず。夜に眠くなり気が緩むことがあれば、水を以て面に沃(そそ)ぐ。

イスパニヤの古賢、多斯達篤と曰うもの書を著わすことがとても多かった。寿(とし)僅かに五十二歳。著わす所の書籍、生れてから死ぬまでの間で計算すると、一日ごとにちょうど三十六章となる。毎章二千余言、尽く奥理に属す。後人彼れの像を絵にし、両手に各々一筆を持たしむ。精を出して仕事に取り組み、きびきびしている姿を章(あら)わすなり。

王荊公、初めて及第して僉判(せんはん)(職業のひとつ?)となる。書を読むごとに朝に達するに至り、略(ほ)ぼ仮寐(かりね、うたたね)す。日がすでに高くなってから急いで府(役所?)に上り、多くの場合は手洗いや、身を清めることはしなかった。

呉奎(ごけい)、始め小吏たり。昼は則(すなわ)ち公事を治め、夜は輙(すなわ)ち書を読み、寝ねざること二十余年。

陽城、性学を好むも、貧しかったので書を得ることができなかった。乃(すなわ)ち求めて集賢の写書吏となり、官書を窃(ぬす)みて、之れを読み、昼夜出でざること六年、すなわち理解できないことはなくなった。

司馬公幼時、暗記ができないことを心配していた。群居講習し、衆兄弟は既に暗記が終わりゆっくりと静養するに、独り帷を下して編を絶ち、よく暗誦するようになってこの心配事はなくなった。力を用うること多きものは功を収むること遠く、其の精誦する所は乃ち終身忘れざるなり。司馬公はかつて言えらく、読書は暗記するまでやるべきである。馬上にいる時や、あるいは夜寝られない時、其の文を詠じ、其の義を思えば得る所多しと。

董仲舒(とうちゅうじょ)、春秋を治むるを以て孝景の時博士となる。帷を下して講誦し、或は其の面を見るなし。蓋し舎園を観ざること三年、其の精なること此くの如し。

柳子厚、永州の司馬にけなされる。居閑にして益々自ら刻苦し、記覧を務め、詞章を爲(つく)り、深く広い学識は限界を知らないまでになり、而して自ら山水の間にほしいままにす。

太孺人(=殿卿の母)、中歳にして一人身で暮らし、日夜一人息子の建立の時あるをまつ、厳として愉快そうな顔色なし。もし人につきしたがって旅行する者がしばしば来たときには、殿卿は往々にして牘(かきもの)を輟(や)めて之れを迎えたが、終日帷を下して暗誦しなければならない場合は、太孺人は猶お客に対するがごとく、つまびらかに殿卿を呵責し、長い時間従遊の訪問謝絶しないときは、太孺人はかんぬきを門戸に持っていき、血気盛んに言葉を吐いて、不満な様子で諸子を帰らせた。そのために殿卿は交わる人がいなかった。許邦才

天下の事、大から小まですべて始皇帝が決めた。始皇帝は、衡石(秤、天秤)を以て書を量るに至る。その量が日夜となる程あり、その程にあたらざれば休息するを得ず。秦始皇

毎日定課あり。鶏が鳴いて起きてから終日写閲して書斎を離れず、行き詰れば枕に就く。目が覚めれば起き、少しも寝たり起きたりはしない。毎夜必ず行燈を床側に置き、自ら提げて案に就く。陳カン(ちんかん)

匡衡(きょうこう)、学を好んでいたが家は貧しく、日々働いて生活を支えていた。もっともその精力は人が及ばないほどであった。衡、学を勤めるに燭(ともしび)なし。隣の家には燭があるけれども届かなかった。衡、壁を穿ちてその光を引きて之れを読む。

邑(オウ、みやこ、むら、郷里)の権威者であった文不識は家富みて書多き名家であった。衡はその書物のために使用人となり報酬を求めず、書を得て遍く之れを読まんことを願った。遂に大学を成す。

孫敬、常に戸を閉じて書を読む。睡(まどろ)めば則ち縄を以て頸に繋げ、之れを梁上に懸く。

愈の為る所、自ら其の至ること猶おまだその時期ではないということを知らなかった。然りと雖も之れを学ぶこと二十余年。始めは三代・両漢の書でなければ少しも見ず、聖人の志でなければ少しも思わず、家にいることも忘れ、出かけることも忘れ、儼乎(がんこ)としていかめしく思うが若く、茫然として迷うが若し。

秦王、館を開き、以て文学の士を招き入れた。

杜如晦(とじょかい)
房玄齢(ぼうげんれい)
虞世南(ぐせいなん)
褚亮(ちょりょう)
姚思廉(ようしれん)
李玄道(りげんどう)

蔡允恭(さいいんきょう)
薛元敬(せつげんけい)
顔相時(がんそうじ)
蘇勗(そきょく)
于志寧(うしねい)
蘇世長(そせいちょう)

薛収(せつしゅう)
李守素(りしゅそ)
陸徳明(りくとくめい)
孔頴達(こうえいたつ)
蓋文達(がいぶんたつ)
許敬宗(きょけいそう)

を文学館の学士と為す。分けて三番と為し、更日直宿させる。王、時間があるときには館中に至りて文籍を討論し、夜分に至ることもある。閻立本をして像をつくらせて、褚亮をして賛を為(つく)らしむ。十八学士と号す。唐太宗

今年四月、余、江戸より帰って、一室の隅に隠れていた。日々古人の書を取って読み、始めて古人の深厚該博(深く広い見識)が、大いに自分と異なることを知った。落ち着いて古人の為した所を見て、その理由を考えるに、ただ勤めるのみ。よって一冊子を置き、古人の書を読んでその学に勤める者に遇うごとに、必ず記録し、かつ名づけるときに猛省をもってやることにした。名づける理由はすなわち記録する理由なり。近日、友人井上壮太(井上与四郎の嫡男)が剣を阪東に学ぼうとしていた。なので一冊を改写して、はなむけとした。もしかしたらここに書いたことに思いを致してくれると願ってのことだ。もし記録したことについて、家に閉じこもり読書するものと、遠くの地まで往来して剣を学ぶものとが、初めから交渉なしと言うのならば、僕はこう言おう、書や剣やと言うのは梯子のみ蔵のみと言っているようなものだ、梯子は建物に非ず、そして蔵は財に非ず。士の士たる所以は書に非ざるなり、剣に非ざるなり。そうであるから、業博(ひろ)く惟だ勤むるのみと。記録したものは僅かに二十条、まだ少しも博く考えて限界まで捜し求めたとは言えない。然れども熟読深思すれば、いわゆる叩きの刑よりも厳しいものがあるのではないか。

1852年9月

松陰蓬頭子識す

吉田松陰全集 (国立国会図書館デジタルコレクション) 目次

岩波昭和15年版、全12巻の目次および該当ページを列挙する。
先達の訳書がある場合は※数字を付けてある。
自ら訳を試みたものは※日付を付けた。
吉田松陰全集. 第1巻 図書 山口県教育会 編 (岩波書店, 1940)

 

 

吉田松陰年譜/1
・家系参考書/51
・武教全書講章/77
    ・戦法/79
    ・用士/84
    ・守城/95
    ・衆戦/102
    ・伏戦/106
    ・用間/110
・未忍焚稿/115   ※5(異賊防禦の策)
・上書/219
    ・明倫館御再興に付き氣附書/221
    ・水陸戦略/244
    ・文武稽古萬世不朽の御仕法立氣附書/263
・猛省録/287 ※180325
・将及私言 外四策/295
    ・将及私言/297   ※5
    ・急務條議/313
    ・海戦策/318
    ・急務策/323
    ・急務則/326
・幽囚録/329     ※1   ※5
・附録
    ・象山先生送別の韻に歩して却呈す二首/372
    ・佐々淳二の前田公の肖像を贈れるを謝するの詩と序/376
    ・先考の墳を拜し、涙餘詩を作る/378
    ・下田の獄中にて澁木生に示す(五首)/378
    ・江戸獄中作(五首)/380
    ・獄中より家兄伯教に上る書/387
    ・二十一回猛士の説/389
    ・金子重輔行状/390
    ・解題/1

 

吉田松陰全集. 第2巻 図書 山口県教育会 編 (岩波書店, 1940)

 

 

・未焚稿/1
・清國咸豊亂記/211
・野山雜著 全四種/261
    ・獄舍問答/263
    ・江戸獄記/286   ※180731
    ・福堂策/301      ※180812
    ・儲糗話/309(ちょきゅうわ)
・賞月雅草/321
・獄中俳諧/339
・冤魂慰草/371
・叢棘隨筆/411
・解題/1

 

吉田松陰全集. 第3巻 図書 山口県教育会 編 (岩波書店, 1940)

 

 

・講孟餘話/1   ※2   ※5(抄)
・講孟餘話附録/523
    ・講孟箚記評語 上 (山縣太華)/525
        ・太華翁の講孟箚記評語の後に書す (松陰)/547
        ・講孟箚記評語の反評 (同)/549
    ・講孟箚記評語草稿 (山縣太華)/554
        ・講孟箚記評語草稿の反評 (松陰)/567
        ・松陰反評の斷片/570
    ・講孟箚記評語 下の一 (山縣太華)/572
    ・講孟箚記評語 下の二 (同)/596
    ・默霖書撮抄一條/612
・解題/1

 

吉田松陰全集. 第4巻 図書 山口県教育会 編 (岩波書店, 1940)

 

 

・野山獄文稿/1        ※5(抄)
・丙辰幽室文稿/93    ※5(抄)
・武教全書講録/203   ※3   ※5
・丁巳幽室文稿/271
・討賊始末/411 ※190812 
・解題/1

 

吉田松陰全集. 第5巻 図書 山口県教育会 編 (岩波書店, 1940)

 

 

・幽窓隨筆/1
・戊午幽室文稿/81    ※1(対策一道、愚論、続愚論)    ※5(抄)
・急務四條/379        ※1
・西洋歩兵論/403
・意見書類/413
・解題/1

 

吉田松陰全集. 第6巻 図書 山口県教育会 編 (岩波書店, 1940)

 

 

・讀綱鑑録/1
・己未文稿/39     ※1  ※5(要駕策主意)
孫子評註/309
・解題/1

 

吉田松陰全集. 第7巻 図書 山口県教育会 編 (岩波書店, 1940)

 

 

・松陰詩稿/1
・坐獄日録/255
・照顏録/263
・縛吾集/273
・涙松集/311
留魂録/317     ※1  ※4  ※5
・詩文拾遺/331
・解題/1

 

吉田松陰全集. 第8巻 図書 山口県教育会 編 (岩波書店, 1940)

 

 

嘉永二年(二十歳)
嘉永三年(二十一歳)
嘉永四年(二十二歳)
嘉永五年(二十三歳)
嘉永六年(二十四歳)
安政元年(二十五歳)
安政二年(二十六歳)
安政三年(二十七歳)
安政四年(二十八歳)
・解題/1

 

吉田松陰全集. 第9巻 図書 山口県教育会 編 (岩波書店, 1940)

 

 

安政五年(二十九歳)
安政六年(三十歳)

 

吉田松陰全集. 第10巻 図書 山口県教育会 編 (岩波書店, 1940)

 

 

・廻浦紀略/1
・西遊日記/19
    ・西遊詩文/100
・東遊日記/125
・費用録/145
・辛亥日記/169
    ・衣服其外用具附立/181
・東北遊日記 附東征稿/185
・睡餘事録/329
・癸丑遊歴日録/341
・長崎紀行/397
回顧録/415       ※1   ※5
    ・野山獄來翰節略/446
    ・三月二十七夜の記/459
    ・矢之介口書判形の事を問ひける答/467
    ・投夷書/469
・解題/1

 

吉田松陰全集. 第11巻 図書 山口県教育会 編 (岩波書店, 1940)

 

 

・野山獄讀書記/1
・書物目録/71
・借本録/75
・丙辰日記/83
・丙辰歳晩大會計/95
・丁巳日乘/103
・吉日録/113
松下村塾食料月計/157
松下村塾食事人名控/165
・東行前日記/175
    ・松陰先生東行送別詩歌集/219
・關係公文書類/245
・兵學傳授文書/389
・兵學入門起請文/411
・葬祭關係文書/425
・解題/1

 

吉田松陰全集. 第12巻 図書 山口県教育会 編 (岩波書店, 1940)

 

 

・宋元明鑑紀奉使抄/1
・外蕃通略/83
・雜纂・補遺/115
    ・山鹿氏墓碑 弘化四年五月十八日/117
    ・覺 嘉永四、五年(カ)/119
    ・茶對 嘉永五年/119
    ・獄中雜詠稿 安政二年(カ)/120
    ・松下村塾規則 安政四年(カ)/121
    ・月の畫の贊 安政四年八月/122
    ・作詩圖解 安政四年/122
    ・山鹿素行著述目録 安政四、五年(カ)/124
    ・代筆草稿 安政五年/124
    ・覺書 安政五年七月二十四日/126
    ・囚奴自問 安政五年十一月二十七日/127
    ・某事件相談書 安政五年/129
    ・覺悟 安政六年二月頃/132
    ・覺書 安政六年五月(カ)/135
    ・曾てなん心計りに 年代不明/136
    ・人の車に乘る者は云々 年代不明/137
    ・石本龜齡君墓碑銘 安政三年/138
    ・六二八 月性宛 安政二年十二月二十二日/140
    ・六二九 月性宛 安政四年九月十日/142
    ・六三〇 横山重五郎宛 安政四、五年頃/144
・關係雜纂/145
    ・依田學海日記 安政六年十月/147
    ・吉田寅次郎(唱義聞見録拔萃)/148
    ・小幡高政談 明治三十九年以前/152
    ・松村介石所説 大正十三年二月某日/153
    ・松陰先生の令妹を訪ふ 明治四十一年九月/154
    ・家庭の人としての吉田松陰 大正二年一月/168
    ・鷗磻釣余鈔 明治二十四年/177(おうばんちょうよしょう)
    ・松下村塾零話 明治三十年/187
    ・渡邊蒿藏談話第一 大正五年七月八日/200
    ・渡邊蒿藏談話第二 昭和六年四月/204
    ・渡邊蒿藏問答録 昭和八年八月十三日/205
・杉恬齋(百合之助)先生傳/213
太夫人實成院行状(杉瀧子傳)/235
・玉木正韞(文之進)先生傳/243
・竹院和尚傳/269
・杉民治傳/289
・關係人物略傳/317
・解題/1

 

吉田松陰全集の現代語訳はじめました!

2015年9月に山口県を旅した。新幹線で新山口駅に降り、1日目は山口市内を観光して秋吉台で日暮れを迎えた。2日、3日、4日目は萩市内を走り回った。4日目の夕方に萩を出て、山陰本線長門を通り、夜のうちに下関に到着した。5日目は下関を少し見てまわってからお昼くらいには帰路に着いた。

1日目、山口駅周辺を散策した。ランニングシューズを履いていたので、藩庁門や瑠璃光寺まで軽快に歩いて行った。途中、道草などもした後バスを調べて秋吉台へ。鍾乳洞におそらく初めて入った。薄暮にゆったりしていて、萩に向かうつもりでいたが、終バスを確認し忘れ、結局新山口駅に戻る便にぎり乗った。

2日目、朝、スーパーはぎ号(高速バス)に乗り込んで萩へ向かった。萩往還から萩バイパスにさしかかったところで、見えてきた指月山が体感的にはかなり近く迫ってきて、城下町のイメージがぐっと湧いた。明倫小学校の前にあった花燃ゆ関係のところでレンタルサイクルを借りた。

レンタル係をしていた地元の方々が良い感じで、貸出のやりとりをしている間も笑いが起きていた。まさか自分でも三日間も滞在するとは思っていなかったが、いろいろな所を巡っているうちにすっかりこの街に親しみを感じてしまった。橋本川と松本川に囲まれたこの地が肌感覚として入ってきた。

3日間萩の街を駆け巡った。萩初日の夕暮れ、松下村塾で1匹の猫に会った。普段通りのような感じで、部屋にあがりこんでいた。日が沈み雨の維新ロードを走った。萩2日目、小雨がぱらつく曇り空だった。玉江橋を渡る。気の向くままに周遊した。菊ヶ浜で海風を受けた。恵比須ヶ鼻造船所跡で日没を迎えた。

萩3日目の朝、笠山へ向かった。ぽつぽつと人がいて、猫や蝶がいるほかは静けさが広がっていた。ちょうど展望台に上ったときは自分一人で、1時間程その場にいて羽島や萩市街を眺めていた。巡ったあの地この地を遠くから再び望むことができて、今思えば萩を離れる区切りになった気がする。自転車を返す。

萩から長門へ、そして下関へ。5日目の早朝、長府の毛利庭園を訪れた。早すぎて門は開いていなかったが、街の雰囲気を味わった。そのときの晴れた空に広がる雲がいい感じだった。海沿いをバスで走り下関駅へ。火の山公園は通過しただけなのでまたいつか訪れてみたいと思った。

萩を旅する数ヶ月前には、古川薫『松下村塾』、奈良本辰也吉田松陰著作選』を読んでいた。実際に萩を巡ってみて、よい街だなと体感した。なんとなく書と感覚がつながり始めた。『吉田松陰全集』は何度か見たことがあり、萩図書館でも眺めたはず。そういえば図書館きれいだった。

あの旅から2年半経つけれども、ふとした折りに『吉田松陰全集』を買おうか悩んだり、デジタルアーカイブのページをめくったりした。現代語訳を読みたい、あるいは翻訳したいという思いもぽつぽつ抱いていた。しだいに日々のことに埋もれ、片隅にはあったが思い出すことが少なくなった。

 

2018年3月1日、国立国会図書館のデジタルコレクションを久しぶりに見ている時に、自分なりに読んでみようと思って、調べて訳し始めていた。やり始めたら面白いもので、文章が分かる箇所もあれば、漢字が読めない、意味が理解できない部分もあり、その緩急の感覚が新鮮だった。

というわけで『吉田松陰全集』の現代語訳を始めました!かなり我流でペースも遅いですが、少しずつ積み重ねていけたらと思います。漢字や意味の間違いなどご指摘いただけたら幸いです。

吉田松陰全集 第1巻 (岩波書店, 1940)

吉田松陰全集 第1巻 (岩波書店, 1940) 編纂総則ならびに凡例

編纂総則ならびに凡例

 本全集は刊行の辞にも明らかなように昭和十一年四月に完成せる山口県教育会編纂、岩波書店発行の吉田松陰全集十巻本を底本とし、旧全集に収載せられた他人の関係文書及び抄録類の一部を除外して松陰先生の遺著遺文のみを主として集めて全十二巻に分載したもので、広く国民の書として普及せしめるために、平易に通読できることを第一の目的として、漢文を書流し国文に改め、漢文交じりの書簡文その他の和文も一切読み下しに便なるように改めたものである。従って厳密な意味に於いて松陰先生の書き遺された原文そのままの姿ではもちろんないが、上述の相違を除いては全集が採択した原本が即ち本全集の原本となったものであるから、一応旧全集編纂の時の原本決定及び資料蒐集について概略を述べておくことにする。

一、原本の決定
全集の内容を大別して松陰自作のものと関係文献とにし、その資料としては、それぞれ真蹟本・写本及び既刊本と区別した。このうち真蹟本がある場合にはこれを原本とし、同一の書に二種以上の真蹟ある場合は概ね後期のものを採用した。真蹟本がなく、叉あっても未整理の初稿で、成稿は写本として存する場合は、写本を原本とし、二種以上の写本ある場合は調査のうえ何れか一方を採った。但し結果としてはこの場合は極めて稀であった。
かくして決定された原本は、担当委員が所定の用紙に転写し、更に他の真蹟本ある場合はこれと照合の結果を傍記又は欄外に注記し、漢文には句読返り点を付し、書簡文及び侯文使用の上書等を除く以外の和文には句読点を加えた。ただし原本にそれがある場合はその旨を記し、ない場合には句点と読点との別を設けず、すべて「、」であらわした。人名略称、特殊な事件関係、参照文献、方言などに必要あるときは註を加えた。成書の場合は一々解題ならびに凡例を作り、原本に目次なき場合は必要に応じて新たに作製補加し、かくして出来上がった原稿を順次委員に回送して閲を経、最後に各巻編纂主任の委員の手許でまとめた。
なお成書の題名は原本にあるものにより、その結果従来の刊行物とは名を異にするもの(例えば武教講録が武教全書講録と改められたが如き)も二三ある。また書名なき場合は従来行われた名称であれば、それを斟酌(しんしゃく)して新たに命名し、詩文書簡の標題中には編者の付けたものも少なくなかった。

二、資料の蒐集
資料は全国に散在しているから、まづ所蔵者の調査を行い、三人の委員が地方別に分担区域を定めた。故安藤委員は萩市松陰神社および萩市内、廣瀬委員は東京市および全国各地、玖村委員は萩氏以外の山口県および全国各地を担当した。各委員は概ね現地に出張して鑑定の結果採否を定めたが、やむを得ない特別の場合は写本に依ることとした。
資料が前条に述べた条件に照らして原本となり、また参照本となる価値のある時はこれを写し取り、原本との校合は必ず委員がこれに当った。参照本は単に原本の原稿と対照するにとどめた場合も多い。転写については原本の様式の文字を用い、行間欄外書、抹消訂正の文字なども原形のままの位置に写し、やむを得ない場合はその旨を注記した。
原本の筆跡に疑点あり、または読みとりがたい文字があるときは写真をとって各委員に送り、その意見を徴した。写し取りの責任は担当委員が負うべきであるから、それぞれ文末に所蔵者名を附し、その下に校合済として委員の姓略を符号を以て明示した。

右の規定に従って旧全集十巻は次の如く分類配列せられた。

述作篇 第一巻―第四巻
書簡篇 第五巻・第六巻
日記篇 第七巻
抄録篇 第八巻・第九巻前半
関係文書篇 第九巻後半・第十巻

 さて上に述べた立場に於いて編纂された旧全集はとにかく学術的定本たる一面に於いて、難読難解の苦痛も伴い、時勢が要求する一般読書人には多大の不便があったので、今回はまづ読み易くすることを編纂の第一原則として、次のように旧全集の形を改めることにした。

一、原文が漢文である場合は述作・書簡・日記の如何を問わず、すべて書流し国文に改めた。但し松陰先生の漢詩のみは、漢詩がもつ特殊性を重んじて特に原詩と読下し文を併載した。
漢文を書流文に改めるについては、簡潔な文字の間に無限の意味を含蓄する先生特有の文体様式をそこなわぬように周到な用意と苦心とを以てした。
原文の漢字は助字(例えば矣(い)<漢文の助字。置き字として文末で使われる事が多い。事態の完了や変化、断定、感嘆などを示す。>・焉(これ)の字の如きもの)を略し、接続詞(而・則など)を前後の文体上時として省略した以外は概ねこれを生かして用いたが、特に左の諸字の如きは仮名に改めた。

也(なり)
哉(や・かな)
夫(かな)
歟(か)
乎・邪・耶(や・か)
有(あり)
無(なし)
莫・勿・罔・无(なし・なかれ)
爲(たり・なる)
諸・焉(これ)
巳・耳・爾・而巳(のみ)
者(特定の人を指さざる場合のもの)
之(の)
自・従(より)
與(と)
見(らる)
可(べし)

但し漢詩の場合は原文を並載したから、便宜体裁上漢字を仮名にした場合もある。

二、原文が和文である場合といえども、文法的誤りおよび仮名遣いの誤りは正し、ほぼ現行法 ― 大体に於いて文部省国語調査委員会編纂の送り仮名法によったが、あくまでもそれに捉われるということはなく、読み易きを主とした ― に従って送り仮名を補い、濁点・句読点等を施した。候文の場合もその特有の原形を読下しのままに改めた。
この場合といえども、前条に掲出した如き特種の字は仮名に改めると共に、左記の如き宛字ないし特種の用字は便宜現代流に改めた。

玉ふ―給ふ
惣―総
云々の義―云々の儀
大?―大抵
然共―然れども
候得共―候へども
社―こそ

三、原本の変体仮名・片仮名は全部平仮名に改め、漢和両文を通じて、明らかな誤字は正し、略字は正字に、俗字も特に現今正字以上に広く用いられる場合を除いて正字に改めた。

四、原文に加えられた他人の批評および添削は原則として省略した。

五、詩文稿の原本中には、間々その内容の各篇が著作の年月順に排列してないものがあるので、今回はすべて著作年月日の順序に排列しかえ、年月不明のもので推定のつかないものを最後に置いた。従って原本に固有の目次も、新たに補加した目次も、共に本文順序通り改変した。

六、全巻を通じて、人名・地名・書名および故事古典の引用等に、必要に応じて簡明な頭註を施し、本文難読の文字には振仮名を附した。
但し松陰と直接交渉関係のあった師友門人等に対しては、第十二巻に「関係人物略伝」を収載したから、頭註にはその都度〔関伝〕の字を附記して読者参照の便に供し、注記を簡略にした。

七、各巻の首に特に重要な口絵を一葉宛収め、殊に第一巻頭には門人の書家松浦松洞の筆に成る肖像を原色刷にして載せた。

八、各巻の終りに各収載書について簡単な解説を附し、原本の所在および体裁、原文漢和の区別等を記し、かつそれぞれの担当委員名を附記して責任を明示した。

 大体右のような立場で編纂にあたったが、本全集収載内容については、普及版の性質上旧全集の如く抄録および関係書簡並びに文書の一切を網羅することはできなかったが、松陰先生自らの著作は全部収め、旧全集後に発見された書簡も増補し、特に重要な抄録と関係文書を撰択して載せ、全十二巻を次の如く排列した。

述作 第一巻―第七巻
書簡 第八巻・第九巻
日記 第十巻・第十一巻前半
関係文書・抄録 第十一巻後半・第十二巻

最後に印刷に際しての植字形式および諸種の記号についてその大要を記して置く。

一、松陰先生の原文は原則として九ポイント活字を使用した。但し原文の割註および書簡中他人より贈られたものの行間に返書が認めてある場合は六ポイント活字を使用した。

二、原文に附記せられた他人の評文で特に並載の必要を感じたものは、六号活字を以て多くは本文より一字下げて組込んだ。但し第三巻講講孟餘話の孟子の本文および同じく講講孟餘話附録の松陰反評文は、その性質上八ポイント活字を用いて区別した。

三、全巻を通じて、頭註および書簡見出し、詩文題目下の年月日等を除く編者の附記した文ならびに対応記号等には、いずれも括弧()を以て囲み、原文が()の中に記されてある場合は、〔〕符号に改めてその区別を示した。

四、原文中破損または虫食いなどで判読の不可能な字については□符号を以て示した。

五、書簡その他文稿中の題目下の年月日はもちろん編者の附したものであるが、推定の結果疑問ある場合は、(カ)の符号を以てあらわした。

六、頭註はすべて六ポイント活字を使用し、本文との対応符号は(一)(二)を以て示し、稀に*※を用いた場合がある。

 かくの如くにして本全集が努めて原文の平易化を企図したがために、一部の学究的読者にとっては多少の不満あることは当然予想せられることであるが、真の意味における普及版の性質に鑑み実にやむを得ないこととして諒解を仰ぐほかはない。従って篤志の読者に対しては本全集によって把握せられたものを基礎として、更に旧全集をも併せ読まれんことを希望する次第である。
 終りに戦時下物資統制の折柄にも拘らず、出版の全責任を負うて、終始一貫、よく本全集の目的を達成せしめられた岩波茂雄氏に深甚の謝意を表したい。

昭和十五年一月

編纂委員 廣瀬豊
玖村敏雄
同 西川平吉

吉田松陰全集 第1巻 (岩波書店, 1940) 刊行の辞

刊行の辞

 吉田松陰先生は時代を超えていつまでも皇国臣民の行くべき道を指示する英霊的存在である。其の精神気魄は継ぎて起る後輩の血脈に鼓動して永劫に死せず、其の思想信念は連なる者の胸奥に息吹して万世に滅びない。当時維新回天の偉業を翼賛し奉った防長の才俊が、その膝下に学んで躍々たる生命力を育まれた如く、今日新しき世界史の展開を完遂すべき一億臣民は、その精神に参入して逞しき雄魂を涵養しなければならぬ。この意味に於いて、先生の遺著はまさに国民の書、特に青年の書たるべきものである。先に本会が吉田松陰全集を公刊するや、十巻六千余頁の厖大且つ相当難解の書籍たるにも拘わらず、絶大なる賛辞と歓迎とを蒙り、たちまちにして肆上にその陰を没するに至ったことは、以て先生の偉大さと江湖鑽仰の熾烈さとを証するものというべく、刊行の事にあたった本会としても誠に欣快に堪えざる所である。

 然るに前の全集は其の大部分が漢文であり、文中又漢土の典據故事を引用せる語句多きが為めに、一般人士としては訓読の困難を歎ずることが少なくない。かくては折角の金玉の大文字も、一部の学者有識者に独占せられて、其の内に含蓄抱擁する燦然たる光鋩をあまねく後世に発揚するに由なく、旧全集の荷へる真価と意義とは自ら別として、またいささかうらみなきを得ざる次第である。

 本会はここに鑑みる所あり、定本としての旧全集と並行して、別に普及版全集の発刊を企図し、前の全集編纂委員廣瀬・玖村両先生に重ねて之が編纂を委嘱し、更に西川先生の協力を謂うて、共に其の快諾を得たのである。乃ち本全集に於ては、漢文は凡て国文に書流し、和文も読み易きに従って送仮名、句読点等を加へ、必要の箇所には簡明なる註解を施す等、訓読の平易化を図り、以て内容形式共に国民の書としての普及版吉田松陰全集全十二巻の完成をみるに至った。其の出版発売に関する一切の事務は前回と同じく岩波書店の奉仕的尽力によるものである。

 斯くて松陰先生は其の死せず滅びざる永遠思想精神を我が国民の前にあまねく露呈したのである。時あたかも皇紀二千六百年、肇国の大理想を高く掲げて、我が国は今曠古(こうこ)の時艱(じかん)と戦ひつつある。本全集の完成が図らずも此の意義深き時期に際会したことは、果して単なる偶然であろうか、抑々先生在天の威霊の然らしむる所か、吾等ひとしほの感激を禁じ得ざる所以である。

昭和十五年一月
山口県教育会