夢の記録 16

2007年7月7日(土)

夢ではないが、メモノートが見つからないので、先日見た面白かった場面をここに記す。

東武野田線で大学へ向かっていた。途中、東岩槻駅の手前の橋を通過するときに、自分は進行方向に対して右側のドアに寄りかかり、外を眺めていた。そのとき、岩槻駅側の河岸で太極拳っぽい動きをした、白い胴着をまとったおじさんらしき人物が目に入った。通り過ぎたのは一瞬のことだったが、純白の衣服で、岸から川のほうを向いて、片方の足を後ろに伸ばし、もう一方の足のひざを曲げて、体の重心を前のほうに移動するところを目撃した。広く、膝下程度の草が生い茂った平たい川岸で、すぐ目の前には水の流れがある、そんな場所で黙々と一人でやっているのだろうと想像してちょっとおもしろかった。

夢について。ここ数日、眠っているあいだに見た夢が、起きたときにはもう遊離しているパターンだ。やっかいなのは、夢の内容を覚えていないこともそうだが、夢を見ている最中にその夢を把握できていたかということ、そのことについてすら今はっきりとは言えないことだ。というのは、なぜ夢を覚えていないのかを考えたときに、2つのことが気になるのだ。1つは、夢は見ていて、楽しいなり不可思議なり、その世界に浸かっていて、起きた瞬間にそれらの体験と記憶が、「ぱっ」と、または「ふわっ」と消えてしまったということ。もう1つは、夢自体見ていなかった、もしくは非常に把握しづらい夢だったということ。前者については、なんとなく直感的に理解できる。つまりそれが目が覚めるということで、それまでの夢の中での意識と、現実に動き出す意識とが切り替わるというイメージ。この2つの意識は、ある意味では断絶していると言える。このことについては、直感的というだけでなく、それなりの理屈も通っているように見える。厄介なのは後者で、最初に言ったのはこちらの方だ。ここでデジャビュがヒントになる気がする。